三章 峡谷の古塔 【14】

 山の天気は変わりやすい。
 定刻に近づくにつれ、まるで私の気持ちを表すかのように、空には暗雲が立ち込め始めた。
 ますます強くなった風が、不安をあおる様に雨戸を揺らし続ける。
 朝に冬の晴れ間を見れただけ、幸運だったのかも。
 そんな事を考えながら落ち着かない気持ちで待っていると、定刻を幾分過ぎた頃、ようやく扉を叩く音が聞こえた。
 先日と同じ衣装に身を包んだシルヴィアを応接室に残し、小さな部屋ほどもある玄関ホールをつきぬけて、玄関扉に取り付く。
 少々お待ち下さいと扉の向こうに声をかけ、鍵を開けた玄関の扉を渾身の力で押す。
 ――ほんと、重っい!
 重い鉄飾りまで付いている、巨大な観音開きの玄関扉は、その風の力も相まって、物凄い重量だ。
 そもそもこんな時期に来るなよなーっ。
 心の中で叫ぶ。
 半分以上、八つ当たりだけど、来訪者に優しくない造りになっている館は、言い換えれば、それだけ人と会いたくないという事に他ならないわけで。
 しかもこの扉、玄関扉の癖に開閉が主目的ではなく、雪崩でも台風でも潰されないようにしてある、いわば開閉壁とも言っていいほどの堅固な扉。
 元々重いのに、ここまで風が強いと、手だけでは開かないので、肩まで使って体当たり状態で開けるしかない。
 ぐううう。
 なんとか人一人分すり抜けて通れるくらい扉が開いた瞬間、一際強い風に煽られ負荷が増した。
 隙間から入ってくる雪片がびしばしと顔を叩く。
 ついに雪まで降ってきたのかと、その冷たさに顔をしかめる。
 吹雪いて相手が帰るのが遅くなると面倒だ。
 扉に押し当てていた肩に青あざが出来るのを覚悟して、急いで足に力をこめた瞬間、唐突に重さが軽くなる。
 そのまま勢いあまって、外側に開いた扉の向こうにたたらを踏むと、皮手袋に包まれた大きな手に支えられた。
「すまない、遅くなった。」
 ――…誰、これ。
 支えられた手の持ち主を、呆然と見上げる。
 それは好々爺然とした老獪な魔術師でも、権威を笠に着た爬虫類男でも無かった。
 低く垂れ込めた陰鬱な空を背に現れたのは、一様に長身の目つきの鋭い男達。
 そしてその後ろにずらりと並んだ男達よりも一際際立った風貌の男が、私の前に立ちはだかっていた。

 見上げる程の長身に厚い胸板。濃いグレーの髪を短く刈り込み、心の奥まで見抜きそうな水色の瞳は鋭く私を見つめている。
 全員同じそろいの厚い外套とブーツを身に付け、冷たい雪のような白い肌と対照的に、その瞳には燃え上がるような強さと強固な意志を感じさせた。
 私が渾身の力で開けていた扉を片手でやすやすと押さえつけ、後ろの男たちに目配せ一つで指示をする圧倒的な力。そして何よりもこの身のこなし。
 ――こいつら、軍人だ。
 強い風に押されるように、思わず一歩下がる。
 ぞわりと駆け上る不安に目が泳ぐ。
 勿論、私だって前回と同じメンバーで来るとは、必ずしも思っていなかった。
 うんざりした顔のコッドフィールでは無く、別の中流貴族ということや、もっと大勢の助手候補を連れてくるロワン老の可能性も考えていた。
 けれども幾ら高価とはいえ、所詮品物を受け取りに来る「おつかい」だ。
 こんな、戦うことを生業とした男達がする事とは思えない。
 ――どういう事?
 嫌な考えがぐるぐる回りそうになるのをこらえ、動揺を悟られないようにと、そっと目を伏せた。
 ……どちらにしろ、逃げ出すことが出来ないなら、腹をくくるしかない。
「お待ちしておりました。――どうぞお入り下さい。」
 様々な感情を気取られないよう、頭を下げたまま、応接室へ続く道をあけた。

「遅くなって申し訳ありません。お初にお目にかかります、ファンデール王国アルテイユ騎士団所属シグルス・フォンフト、此度は王宮より使者として参上仕りました。」
 低いけれど張りのある、豊かな声が部屋に響く。
 シルヴィアに向かって片膝を付き、頭を下げているのは、先程扉を支えた男性だ。
 優美とは言えないけど、無駄のない動きで口上を述べる姿は、同じく王宮の使者とはいえ、カマキリ男とは比べるべくも無い。
 退路を守るかのように、玄関ホールや入り口傍に、さり気無く立つ同行者たちも、先日のすらりと細長い装飾がかった剣を、お飾りのように身につけていた護衛たちとは大違いだ。
 そしてそんな大柄な男性達に囲まれても、特段緊張した風もなく、シルヴィアは至って平静にソファに腰掛けていた。
「どうぞお掛け下さい。私は王宮から品物を頼まれただけの一介の技術者。膝を突いて頂くこともありますまい。 ……それともわざわざ騎士団長、御自らの来訪には訳がお在りですか?」
 紅を刷いた唇から面白がるような、けれども先日よりも硬質な声が紡がれる。
「シルヴァンティエ・アルザス・ユーン様におかれましてはご機嫌麗しく。」
「……やはり三つ名の私に用がおありですか。」
 嫌そうに答えるシルヴィアに、上流貴族だったのかと得心する。
 確かに今のシルヴィアが作る魔術具が、どんなに精度の高いものだったとしても、彼女がこの環境を作り上げるには、初期に一定以上の財力が必要だろう。
 そしてそれを疎ましく思っていることも、聞かなくても、同時に分かった。
 シグルスは膝を突いたまま頭を上げ、ひたとシルヴィアと見つめる。
「ご存知かとは思いますが、近年隣国クリストファレスの軍部の動きが活発化しております。」
 クリストファレス!
 このトネリ山脈を越した、北方の軍事国家。
 その領土は広大で、光の教団の本拠地。
 第一級警報の、因縁あるその名前に、殊更耳がダンボになる。
「現在は山間部での小競り合い程度ですが、先日ついに計画的な国境侵害が認められ、この緊張状態が一気に広がるやも知れません。」
 国境侵害という事は、ここからそんなに遠くないはずだ。
 極秘ですがと、シグルスは具体的に地名をいくつか挙げる。――そしてその中に、いくつか聞き覚えの有る単語が混ざった。
 確かここから一番近い山間の町の名前が、そんな名前だった気がするぞ。
 先日見せてもらった地図を一生懸命思い出しながら、もしかして今度は助手としてではなく、護衛として誰かを置いていくんじゃないかと、心配になってくる。
 その場合、どうやって断ったら良いのだろう…。
 前回よりも更に拒否するのが難しそうだと、不安に思い、そっとシルヴィアを見る。
 ――けれども、現実はそんな甘くはなかった。
 この期に及んで、認識が甘かったといっても良いかもしれない。
 シルヴィアと私を交互に見つめた男が、静かに、けれども力強く言い放った。

「どうぞ御付きの方と共に、このまま王都へのご帰還を願います。」