三章 峡谷の古塔 【13】

 目も眩む様な光の中、フードを落とし手袋を外した指で汗を拭う。
 運動不足で息が上がっている体には、冷えた指先と冷たい空気が、何とも心地よい。
 このまま火照った体をこの新雪の上に投げ出してしまいたい気分だけど、流石にそれをやると、後が怖い。
 ――風邪をひくどころか、部分凍傷になりかねないかも。
 雪かきに使っていたスコップを椅子代わりにして、どこまでも澄み渡った空を見上げれば、久々の晴天にハピナー達が、文字通り羽を伸ばして戯れているのが、目に入る。
 まだまだ目に入るのは、一面の雪野原。
 ……けれども雪深い時期には聞こえなかった小動物の鳴き声が、遠くから、かすかに山に木霊しながら聞こえる。
 これだけは何処の世界でも変わらない、――雪解け間近の風景だ。

 あの突然の襲撃の後、まるで何かを忘れるように、シルヴィアは王宮からの仕事に明け暮れた。
 ろくに食事も取らないで一心不乱に打ち込むその様子は、鬼気迫るという言葉そのもので、私に口を挟めることは何も無い。
 部屋に篭って作業をするという事は一人になりたいと言う事だろうし、気持ちは分かる。
 世の中、話して楽になる、そんな単純な事ばかりでは無い。
 私に出来た事と言えば、そっと置く食事を、いつもより栄養価の高いものに心掛ける事ぐらい。
 それでも三週間も過ぎた頃から、食事時は部屋から出るようになり、ようやくあの間延びした、いつものシルヴィアに会えるようになった。
 最近では、シルヴィアが篭っている間に私が書き上げた『テッラの一般家庭における家電一覧表』や『公共交通機関一覧』だのをいつも小脇に抱え、また、新たな魔術具を思案中らしい。
 昨日もリビングで鼻歌を歌いながら、何かの模型を作成中していたし、それで気分が晴れるなら何より。
 やっぱり私も、暗い顔のシルヴィアは見ていたくない。
 そんな事をしている間にも、季節は徐々に移り変わり、深い雪の峡谷にも少しずつ春の兆しが見え始めていた。

 少しかじかんだ手で、あちらから持ってきたステンレスの魔法瓶から、温かなお茶を注ぐ。
 最近お気に入りの花の香りのするお茶は、煙草をやめた私には唯一の至福の時でもある。
 少し小高くなっている丘の上からは、私が今朝から雪かきをして出来た道と、ぽってりと生クリームでデコレーションしたような、雪に埋もれたシルヴィアの館が見えた。
 きっと雪かきをした道さえなければ、そこが家であることすら気がつかないだろう。
 そのたたずまいは、人を寄せ付けないと言うよりも、あまりにも周囲と溶け込んでいる。

 一冬住んでみればシルヴィアの館は非常に快適で、蟻の巣みたいな複雑怪奇な構造も、理に適ったものだと分かった。
 館の大半が地中に埋もれているせいで、冬暖かく夏は涼しいし、もちろん雪深い時期に雪かきをしなくても重さでつぶれることも無い。
 地上部は緩やかに傾斜がかっていて、気候が暖かくなれば雪解け水が、自然と川に流れ落ちる。
 雪崩で地上の出入り口が全て塞がれても、崖側の塔から出れば良いし、川が氾濫しているような時でも地上から出入り可能だ。
 だから本来は、雪かきなんてする必要は、まったく無かったりもする。
 それでも玄関前からここまで雪を払ったのは、今日が再び王宮からの使者を迎える日だからだ。
 シルヴィアが作った品物を渡すだけ。
 そう自分に言い聞かせても、前回と今回では意味が違う。
 不信を抱かせない程度に、シルヴィアの助手としての立ち振る舞いをしなくてはいけない。
 前回と同じように応接室の掃除をするのは勿論のこと、きちんとしたお茶の入れ方、言葉遣いや最低限のマナー。
 覚えることは山ほどあるわけで。
 シルヴィアにチェックしてもらったとはいえ、正直これっぽっちも自信は無い。
 王宮の女官や召使と違ってあくまでも『助手』という立場だから、礼儀作法は程々で良いとは思うんだけど、荷が重くないといったら嘘になる。
 出来ることなら風邪ひいて寝込んでいるって事にしといて欲しいけど、それも挙動不審だろうしなぁ。
 そんなこんなで、失敗しないようにと、出来る準備は、昨日までに全て終わらせてしまったら、今度は朝から落ち着かない。
 結果、どうせやる事が無いならと、館からスコップを持ち出し、気分転換代わりに、雪野原と格闘しはじめた。
 最初は普通に雪かきをしていたけれど、軟禁生活も長い三十路前。
 十分で息が上がり、三十分もしたら、もう限界。
 子ども達を追っかけて園庭を走り回っていた頃の体力はどこへ行った!?と自分を叱咤《しった》しても、息は上がるし、足腰震えるし。
 結局自力で雪かきをするのは早々に諦め、リビングに戻る。
 そして以前見た、自動運搬機の先に何枚かの板をくくりつけて、ミニブルドーザーを自作。
 除雪車みたいに玄関前の雪を端に寄せては、崩れないようにスコップで叩いて固めるのを繰り返し、ようやく玄関前の雪を払い終えた。
 先日コッドフィールにネチネチ言われたので、絡まれない程度にと、今いる丘に向かって、ついでに小道も作ってみた。
 何か言われるぐらいなら良いけど、正直、早く帰ってもらいたいし、出入りはスムーズにしておくに越した事は、無いだろう。
 あ〜〜。それにしても体が痛い。
 あまりの清々しさと、久しぶりの外の空気に、少々ハイになりすぎたようだ。
 ……言い換えれば、現実逃避とも言う。
 ミニブルドーザー君が大活躍してくれたとはいえ、体のあちこちが悲鳴を上げている。
 降りしきる雪とリバウンドの記憶から、無意識に引き篭もりになっていたけど、この体力の落ちっぷりはただ事ではない。
 これからも時々雪かきでもして定期的に体を動かした方が良いかもしれないな。

 澄み渡った空に浮かぶ雲を眺めながら空の彼方へ意識を飛ばしていると、知らず知らず、懐かしい冬の童謡を口ずさんでいた。
 これも一種の職業病かもと、ちょっと笑って大分ぬるくなったお茶を口に含む。
 そのまま煙草の煙のように白くなった息を、青空に向かってぽっかりと吐き出した。
 シルヴィアが、この青空を見ることは出来ない。
 結界の張っていある館の中しか見えない彼女には、四季折々の風景すら楽しむ事は出来ないのだ。

 私も彼女も、物理的に外に出ることは出来る。
 けれども外の世界で生活することは非常に困難で、館の中にいれば不自由さを感じることはあっても、困ることは無い。
 いつからか、何とはなしに感じる連帯感は、お互いが不自由な身であるからこそのものだ。
 けれども二人、同じではない。
 いつまでも一緒に生活することは出来ないし、自分の世界に帰る道を模索するため、私は遠くない未来に、シルヴィアの元を離れるだろう。
「さーて、そろそろ戻るか。」
 白い息と共に呟くと、重い腰を上げる。
 明日の筋肉痛は確実だ。
 ……もしかしたら明後日かもしれない。
 ミニブルドーザーの上に小さな雪だるまを乗せて小道を下る。
 春先には出入り口の傍に、花を植えよう。
 私が去った後、きっと花の香りだけでも楽しめるだろう。