三章 峡谷の古塔 【15】

 王都帰還命令。
 思いもかけない発言に思わず息を呑む。
 よりにもよって王宮からの帰還命令だなんて、罪人の警察出頭命令程度には、嫌なものだ。
 じわりと手にかいた汗を止めるように、シルヴィアの座るソファの影でこぶしを握る。
 もちろん発言権のない私には、シルヴィアが上手くかわしてくれるのを願うしかない。
 息を呑んで見守る私の前で、すっと目を細めてシルヴィアが問うた。
「それは誰からの命令ですか?アルテイユ騎士団長であるシグルス殿に、こんな荒唐無稽な指令を出したのは。 ……そもそも、私の三つ名を知る者はそんなに多くありません。」
 静かな、けれども凍えるような怒りを含んだ声が、部屋に響く。
 先日来た、コッドフィールを思い出す。
 確かに彼はシルヴィアを上から目線で見ていたけれど、ああいうタイプは、得てして権威に弱い。
 彼女の身分が上だと知っていたら、少なくとももう少し違った態度をとったろう。
「魔術ギルド上層部? 実家? それとも、まさか…」
 更に言い募ろうとする彼女の前で、シグルスは深々と頭を下げた。
「陛下よりのお達しで御座います。」
 陛下!
 その言葉に、見えないハンマーで殴られた気分になる。
 それはどう考えても、このファンデール王国の国王の事だろう。
 ――私は中央政権から隔離される為に、この地に来たのではなかったか。
 くらりと眩暈を感じた。

「陛下はシルヴァンティエ様が戦渦に巻き込まれるのではと、非常に御身をご案じなさっております。どうぞこのまま我々とご帰還願います。」
 しかも随分性急だ。
 つまりなんだ。
 このぞろぞろいるのは、道中何かあるといけないから付けられた、本当の意味での護衛なのか。
 けれども後ろ暗い私には、護衛というより見張りにしか見えない。
 まさにドナドナ。連れて行かれるのが市場か王都かの違いはあるだろうけれど。
 そんな事をつらつら思っていると、くつくつと、まるで筋肉が引き連れて出た様な小さな笑い声が、静かに響き始めた。
 それは俯き、額に片手を当てていたシルヴィアの仮面の下から紡ぎだされ、目を見張る騎士達の前で、やがて大きな笑い声にかわる。
「…っぁー、可笑しい。」
 眉一つ動かさず、その水色の瞳で静かに見続ける男の前で、ソファに体を預けたままシルヴィアは一しきり笑い続ける。
 銀糸で彩られた濃い紫色のローブに身を包み、白螺鈿と紫水晶で美しく装飾された仮面の下から響く笑い声は、心底可笑しそうな、けれども何かひやりと含むものがある笑いだ。
 それは、子どもの頃に見たピエロを思い出させた。

「…辺境の地に住まう事は許されても、戦渦に巻き込まれることは許されないのね。」
 笑みを含んだまま、正面の男に言葉をかける。
「シルヴァンティエ様のお気持ちが、王都に無い事は重々存じ上げております。しかしながらまだ雪深い時期にも関わらず、クリストファレスの動きは活発化しております。残念ながら、この地の安全性は、もはや楽観視出来ません。」
「違うでしょう?」
 仮面から見えた口元は笑ったまま、歌うように言葉を紡ぐ。
「王宮からの仕事を請けるなら良し。辺境で一人野たれ死ぬのも許す。……けれども敵国に捕らわれて、自国の不利になる技術をばら撒かれるくらいなら、王都に『盲いた女』として監禁せよと言う話でしょう。」
「それは、」
「違うとは言わせない。」
 冷たい声で、ぴしゃりと言い放つ。
「戻って陛下にお伝えなさい。自国の危機なればこそ、微力ながら一技術者として国を支えましょうと。この館は通常とは違います。一年でも二年でも強固な城として篭城出来るのはご存知の通り。また、私が望まなければ、この館から生きて出る事も不可能です。
 ご心配される必要は御座いません。」
 い、生きて出られないって、一体どんな仕掛け?
 さらりと非常に物騒なことを事を言い放ったシルヴィアに、アーランと合図され、慌てて先程から手に持っていた天鵞絨張りの箱を差し出した。
「頼まれていた魔術増幅器です。国防の為に使うのであれば、より個数が必要でしょう。御入り用とあらば、クリストファレスの動きが本格化する前に、必要数、王宮にお届け致します。」
 先程の箱を開け、大きな宝石が埋め込まれた3つの石版が鎮座しているのを示してから
「もちろん協力させて頂く以上、御代はいりません。」
 自由を黙認すれば、魔術具を無料で、しかも大量に納品してやると、言外に告げる。
 先程から殆ど表情を変えることのなかったシグルスも、流石にこう出てくるとは思わなかったのだろう。
 その強い意志を秘めた、冷たい水色の瞳をわずかに伏せ、しばらく思案顔になる。
 鍛えられ上げた男の体はそれだけで人目を引くけど、それが更に上背があって目鼻立ちが整っていると、えも言われぬ迫力になる。
 その迫力はもしかしたら騎士団長という、人を使う立場もあるのかもしれない。
 今みたいに目を伏せていると、意外と良い男だなと観察する余裕もあるけれど、こちらを見つめられたら、その迫力に圧倒されてしまうだろう。
「…お気持ちは分かりました。その旨、確かに陛下にお伝えいたしましょう。」
 結論が出たらしい。思わずほっとため息をつきたくなる。
 いやいや、まだ気を抜くのは早いと、気持ちを引き締めなおすけれども、大きな一山は越した感覚に、正直安堵した。

 結論が出たからには、だらだらと長居をするつもりは無いらしい。
 きりりとした表情のまま、シルヴィアと私を交互に見てから
「それでは悪天候の為、早急に王宮に戻らせて頂きます。 しかし、非常事態である故、お気持ちに添えない事もあると思います。――その旨、ご理解下さい。」
 男は箱を持ったまま、一度深く一礼して、立ち上がる。
 シルヴィアがそれに応えるように頷くと、静かに壁際に控えていた騎士達も一礼して撤退準備を始めた。
 今回の訪問で終わりではないのが残念だけれど、今日は概ね無難に終わったんじゃないだろうか。
 今後も定期的に王宮から使徒が来るなら、それはそれで対策が立てられる。
 たとえ私が突然この館を離れるにしても、隣国クリストファレスとの諍いを口実にすれば、不自然では無いと思うし。
 それに、本当に私個人が疑われていないのならば、このままシルヴィアの館にひっそりと助手として住むのも一つかもしれない。
 ぼんやり、そんな事を考える。
 けれど、近場の治安が悪くなっているならば、この地を離れるのが現実的だろう。
 流石に本当にドンパチ始まって、篭城したいとまでは思わない。
「やはり吹雪いてきたようですね。」
 いつの間にか隣に立ったシルヴィアの声に、我に返る。
 しまった。ぼけっと見てる場合じゃない。
 慌てて玄関ホールに向かう扉を開けて、玄関の鍵を開ける。
 相変わらず強い風の音に、玄関ホールを見渡して、ランプを探す。
 きっと外は確実に暗い。明かりがあった方が良いだろう。
 ――しかし君ら、ほんとに、でかいな!
 広い玄関ホールも、長身マッチョな男達が集まれば、非常に狭く感じる。
 防寒用の足元まで有るマントを身に着けた長身の男達。
 その間に立っていると、もはや気分は立体迷路だ。
 玄関ホールにおいてあったランプを探すのを諦め、シルヴィアと話す男達と、壁の隙間を静かにすり抜けて、応接室に戻る。
 ――確か、応接室の暖炉の影に、松明があったはず。
 彼らが挨拶をしている間に、急いで玄関扉を開け、照明を外に掲げるのは、この場で一番下っ端である、私の役割だ。
 静かに、けれども急いで暖炉の前に走った。
 私とシルヴィア。その距離は、ほんの2〜3メートル。

 それが運命を分けた。