三章 峡谷の古塔 【8】

 朝から降っていた雪は昼を過ぎても止まず、それどころか次第に強い風も出てきたようだ。
 広い豪奢な応接室の窓は、そんな風の力にもびくともしないけれど、音を聞けば、大分吹雪いてきたのが分かる。
 ――そろそろ終わりにしようかな。
 そう思いながら腰を伸ばして、ぐるりと部屋を見渡す。
 ぱっと見、問題なさそうだけれど、掃除をやり残した所が無いか、最終点検。
 もう半刻もすれば、王宮の使者が来るはずだから、急いだ方が良いだろう。

 ここは、いつも自分達が過ごすリビングから、最も距離が離れている半地下の部屋。
 一体、この古塔の何処に来客を招くのだろうか?と、不思議に思っていたのだけれど、シルヴィアの住まいは広くて、深い。
 私が知らなかっただけで、崖の中を蟻の巣状に広がる住処の中には、来客用の応接室がきちんと用意されていた。
 寝泊り出来そうなほどの、大きな玄関ホールに、広い応接室と、控えの間。
 小さな扉を開けると隣には、お茶を入れる為の小さなキッチンまである。
 華美まで行かず、地味でもない。 かといって重厚感から来る重苦しさもない、非常に居心地の良い、洗練された応接室だ。
 どうやら私は、勝手口からいきなり台所に上げられたような感じだったみたい。
 造りを見れば、むしろこちらが正面玄関にあたるわけで。

 それにしても、一体、いつから使っていなかったのだろうか。
 シルヴィアの散らかりまくった生活スペースと違って、きちんと家具には埃除けの白布がかけられていたし、非常に充実している小物たちも、新品同様。
 もしかして、と探したら、来客用の豪華なティーセットも何客も揃っていた。
 正直、この家にこんな場所があるなんて、想像すらしなかったよ。
 いつも使用しているエリアとのあまりの違いに、江戸の長屋の一角に、中世ヨーロッパの応接室がくっついているような、凄まじい違和感があるぞ。
 壁にかかったランプだけでなく、卓上ランプにも明かりをいれて、最後に暖炉に火を入れる。
 既に部屋は快適な温度になっているけれど、この吹雪の中に来る人たちには、暖炉は必要だろう。
 畳んだ埃除けのカバーと掃除道具を控え室に片付けて、複雑な長い廊下を戻ると、丁度リビングに身支度が終わったシルヴィアが現れた所だった。
「――…シルヴィア?」
 思わず名を呼び、確認してしまう。
 正しく表現するならば、シルヴィアの面影を少しだけ残した女性が現れた、と言うのが正解だ。
 細い肢体を足元まで包む、鈍い葡萄色の長着。
 裾に施された白銀の細やかな刺繍と、帯代わりの飾り紐が、暗くなりがちの色味を引き立てていて、美しい。
 綺麗な三つ編みにして前に流してある、いつもぼさぼさの長い髪は、今は丁寧に梳られていて、流れる銀の糸のよう。
 顔には、目元を隠す布の代わりに、目元が開いていない、白い小さな仮面がひとつ。
 その口元が開いた白亜の仮面には、眉間に大きな紫色の宝石や、細く砕いた白螺鈿が埋め込まれるなど、趣味の良い、精緻な細工がなされている。
 決して絶世の美女ではないけれど、凛とした立ち姿に、目を離せない威厳とオーラ。
 これが、いつもの背を丸め、ガウンを何枚も着込んで練り歩き、あまつさえ長すぎる髪で掃除をしてしまう、ザ・干物女代表のシルヴィアと同一人物と断定するには、目の前の彼女は、――あまりにも違いすぎた。
「掃除ありがとうね。アーランはこっちに居てくれれば大丈夫。後は私がするから、ゆっくりしていて。」
 こちらを振り向きながら、微笑むようにして話す彼女を初日に見ていたら凄い印象違ったろう。
 さすがに声は一緒だけど、口調まで違うし。
 ……ってか、普通の速度で話せてるよ!?
 姿形の印象が変わった事よりも、妙なところに感心してしまう。
 ここまで変わると、軽く詐欺だ。
 技師をやめても、年齢不詳のカリスマ占い師とか出来るんじゃないだろうか。
 色々な事を突っ込みたいけど突っ込めなくて、口をパクパクさせる私の前で、彼女は台所の棚をごそごそ漁り始める。
「……えっと、何をお探しで?」
 お高そうな服が汚れるといけないので、恐る恐る申し出る。
 代わりに探そうと思って台所に行くと、小皿の上に、干からびた梅干のような物体Xを見せられた。
 何だろ?これ。
「ようやく発見できた口紅。十年近く前のだけど、食用油かなんか混ぜたら、まだ使えるよね?」
 十年前の口紅……。
 ――どんなに姿は変わっても、やっぱりシルヴィアはシルヴィアだと確信する一言に、何故か心から安堵しながら、口紅に混ぜる蜂蜜を取り出し、湯煎にかけはじめた。

「えぇと?……私が顔を出すんですか?」
 シルヴィアが応接室へ消えてから、随分長い時間が経った。
 どうせ込み入った話なのだろうからと、いつもより時間をかけて作った夕飯の支度も終わり、ハピナー達にご飯を上げていたところだった。
 凄まじく不機嫌な彼女が戻ってきたのは。
 いつもは外にいるハピナー達でも、今日の様にあまりに凄い吹雪の日には、こうやってご飯をもらいに遊びに来てくれる。
 一人が充分楽しいシルヴィアでも、たまには人恋しくなるらしい。
 ハピナーの為に、雪が積もっても開けられる細工窓を、わざわざ用意してあったくらいだ。
 時に小さな羽根をパタパタと動かして、一生懸命手の上のリンゴを食べる小ザル達の姿は、何とも言えず愛らしい。
 私にとっても、貴重な貴重な癒しの時間。
 さっきの口紅に混ぜる為に出した蜂蜜を目ざとく見つけ、きらきらした目で見つめられたら、も〜適わない。
 いつもより贅沢な、薄い蜂蜜がけリンゴは、ハピナー達の心をがっちり掴んだようだ。
 通常なら遊びながら食べる事が多いのに、今は三匹で一心不乱に食べていた。

「……王宮の人たちは、帰られたんではないんですか?」
 第三者がすぐ傍まで来ている不安を、ついでとばかりにハピナー達に解消して貰っていたのは良いけれど、――癒されまくって、頭の螺子が少し緩んでいたらしい。
 不機嫌な顔つきのシルヴィアとは反対に、緊張感が戻ってこない。
 えぇと??
 そもそも何で私がここにいる事を、わざわざ相手に伝えたのだろう、とぼんやりと思う。
「まだ。あいつら勝手に助手候補だって言って、3人もぞろぞろ連れて来たのよ。王宮の仕事を断る位だから人手が足りてないのだろうって。 アーランのことを出さなかったら、このまま最低限一人は置いていくって言うから、どうしようもなかったの。」
 言いながら、イライラと軽くテーブルの足を蹴る。
 なるほど。
 王宮と繋がりの強い人物を置いてかれたら、さすがに不味いというのは私でも分かる。
「でもなんで私が顔を出す必要があるんですか? 助手は今いるからいらない。……って言うんじゃ、駄目だったんですか?」
「今まで散々、助手をとらないで断ってきたからね。そんな人間、いないと向こうは思ってる。ハッタリだと。 だから話さないで良いから後ろについてきてくれる? …顔さえ見せれば、そのまま大人しく帰るという条件をつけたから。」
 ハピナーの頭を軽く撫でて、小さな声でごめんと謝れられれば、私に言えることなど、他に無い。
 この長い時間の殆どは、私を彼らの前に出さないですむように、彼女なりに悪戦苦闘したからなのだろう。
 どちらにしろ、逃げ隠れ出来る場所も、時間も無い。

「わかりました。なるべく話さないで、後ろに立っているだけで良いんでしたら、顔を出します。」
 厚い冬服の下のサラシが引き締まっているかの確認をして、心を落ち着ける為に一呼吸。
 相手が欲しいのは私の情報ではなく、シルヴィアの知識。
 つまり、よほど悪目立ちしなければ、顔さえ見せれば全て丸く収まるはず。
 不必要に怯える必要は無いはずだ。
 ――さぁ、鬼が出るか蛇が出るか。
 覚悟を決めて、シルヴィアと共に、長い廊下に足を踏み出した。