三章 峡谷の古塔 【7】

 こちらの世界に来てから初めての冬になった。
 異世界でも元の世界でも雪だけは変わらない。
 静寂と安寧と無慈悲さで、全ての物を閉じ込める。
 リバウンドの危険性がある期間が終わったと言うのに、ここまで深い雪に閉じ込められてしまえば、一歩も外に出られない。
 軟禁延長となんら変わりないけど、やる事も覚える事も沢山ありすぎたし、自分の状態に不満を持ったことは殆ど無かった。
 こちらの世界に来て半年弱、相変わらず私の世界は、レジデとフォリアそしてシルヴィアのみで構築されていた。
 ――そう、この日までは。
「あー! もう最悪〜〜〜〜〜〜。」
 シルヴィアの作った、掃除機試作品2号「吸い取るちゃん」を使ってリビングを掃除をしていた私の目の前に、彼女が現れたのは、なんとまだ午前中の事だった。
「おはようございます。どうしたんですか、こんな朝早く。」
 本当に朝早い時間じゃないけれど、ここに来て早三月。
 シルヴィアがこんな時間に自主的に起きてきたことなんて一度も無い。
 眉間のしわを深くして、む〜〜〜〜〜と呻きながらいつものソファーに向かう。
 彼女にとっての冬服なのか、何枚も重ねたガウンを十二単のようにずるずると引きずりながら歩くその姿は、何か新種の生き物のようだ。
 時々物が見つからない時は、彼女のガウンの間を調べると挟まっていたりするから、どちらかと言うとブルドーザーに近いのかもしれない。
 掃除機を置いて、お湯を沸かしてお茶の準備をする。
 まだ朝ご飯も食べていないけど、煮詰まってる時にいつも出す甘いお茶菓子とお茶を用意した。

「王宮から人が来る。」
 台所にいた私の背中に、呻くような一言が飛んできた。
 えっと?
 オウキュウカラヒトガクル?って何だ?
 あまりに意外な言葉に、とっさにシルヴィアの呟いた短い言葉が理解出来ない。
 最近ではあまり彼女の言っている言葉が分からない事は無くなったのだけど、オウキュウカラヒトガクルって何だろう?
 台所からお茶を運び彼女の前に置く、もう一度台所にお茶菓子を取りに戻った頃、ようやくその意味が頭に浸透してきた。
「王宮から人が来る……って、何処にですか?」
 我ながら間抜けな質問だけど、この際仕方ない。
 何故なら今現在、この地は名実共に、陸の孤島になっているからだ。
 元々辺鄙な所にあった上に、降り積もる雪はとどまる所を知らず、ごく一部を除けば窓すら開かない。
 たとえこの塔から出たとしても、あるのは道すらない雪山か、峡谷の合間を流れる川のみだ。
 無理やり船で来たとしても、下の船着場の扉は開かないだろうし、一体どうやって?

「ここに。今日の昼過ぎには着くみたい。」
 心底嫌そうに顔を顰めたまま、彼女はお茶をすする。
 生活必需品調達以外の来客なんて数年に一度だと言っていたシルヴィアの言葉を信じるなら、こんな真冬に、しかもいきなり王宮から人が来るなんて……どう考えても徒事ではないだろう。
 じわりじわりと、背中を不安が駆け上る。
 もしかして何処からか、私という不審人物の情報が漏れて、調査に来るのだろうか。
 レジデやフォリア、そしてシルヴィアに今以上の多大な迷惑をかけると?
 そんな不安が顔に出ていたらしい。
 思わず立ち竦む私を見て、手に持った紙の束を机に置きながら
「アーランの事が原因じゃないよ。私の仕事関係〜。」
 と安心させるように笑ってくれた。
 そのまま促されるように横のソファに座ると、厚い紙束を渡される。
 この茶色がかった紙とそこに踊る濃紺の文字には見覚えがあった。
「これ、通信室にあった手紙ですよね?似たような物を、シルヴィアの部屋に何度か届けた気がします。」
 この家には通信室と私が勝手に呼んでいる小さな部屋がある。
 こんな辺鄙な所に通常の郵便配達は勿論来ないので、日常の細々とした手紙は、通信室にある大きな本に勝手に書かれていく。
 何も書いてないページは何をやっても切り取れないのに、一度文字が浮かんだページは触ると勝手に本から離れ、こんな紙束になるのだ。
 最初は触った瞬間に本が壊れたのかと、戦々恐々としたっけ。
 この本には誰でも通信出来て書き込める訳では無く、シルヴィアがコードを教えた幾人かからのみ連絡が来るらしい。
 手軽な気もするけど、見ていると不精なシルヴィアはそれすら目を通すのがめんどくさいらしい。
 たまりにたまった手紙を定期的にシルヴィアの部屋においておくのも私の仕事の一つだ。
 早い話、FAXみたいな通信道具だと認識しているけれど、値段においてはFAXのように、お手軽にどの家にもあるような品物ではないらしい。
 むしろ王宮とのやり取りに使っている位だ。
 非常に高価なのだろう。
「幾つかね〜、王宮から何度も催促されたけど断っていた仕事があるんだよねー。それについて話があるみたい。ったく何度も何度もしつこい〜」
 手紙の束の何箇所かを指し示して、子供の様に嫌そうな顔をする。
 ぱらぱらとめくってみると、確かに再三の依頼書、及び催促状に見受けられた。
 彼女と手紙の様子からして一度断りの手紙を出してから、ずっとほっといたんじゃないだろうか?
 手紙も後半になるにつれて、せっつまった様子が見て取れる。
 そして最後の数枚では、ついに業を煮やして、魔術学院のお偉いさんと共に本日こちらに押しかけるという旨が記載されていた。
 この雪山に出向いてでも直に話さなくてはいけないと言うなら、彼女が断っていた仕事というのはかなり大きな仕事なのだろう。
 けれど、それはそれで疑問がわいた。
「シルヴィア。掃除機を始めとする試作品を作ってる時間があんなにあったのですから、こちらの依頼をこなしても良かったのでは?」
 彼女はいつも何かを夢中で作っていたけれど、私が来てから作ってるものは全部仕事ではなくて、試作品。
 掃除機だったり、食器洗浄機だったり、小さな動く電車の模型だったりと、テッラにあって面白そうな物を片っ端から仕様書を作り、同時に幾つも試作品を作っていた。
 逆に言えばこの三月、彼女が他の仕事をしているのを見た事が無いとも言える。
「ヘンな事言うね?だって王宮からの依頼はただの魔術増幅器だよ?!そんなの今までも何回も作ったし、他の人だって作れる。一度断りの返事は入れたんだし、向こうだって意図はわかるはずなのに〜。けど今アーランと作ってる子達はまったく新しい魔術具でしょ?どっちを取るかなんて比べるまでも無いよ。」
 でもまさか押しかけてくるとはなぁ〜と憂鬱そうに落ち込む彼女を見ながら、とりあえず微妙に自業自得らしいと結論付けて、安心する。
 彼女の仕事の事で来るならば、私は何処かの部屋に隠れて過ごせば良いだけの話だろう。
 まさか私が応対しなくてはいけないなんて事はありえないだろうから。

 今思えば、この時点で何か手を打っていれば、未来は変わっていたかもしれない。
 もしくは、リバウンドの恐れが無くなった時に、何か策を取るべきだったのかも知れない。
 けれども私はあまりに無知すぎた。
 ごく少数の人間に守られた小さな異世界の中で、どう上手く誤魔化して生きていくかを考えている事自体が甘かったのだ。
 ナチスから逃れる為に小さくなって生きていたアンネフランクの様に、異端者が隠れて生きていく事を本気で考えるべきだったのだ。

 必死で元の世界に戻る方法を考えてくれていたレジデの手伝いがしたかった。
 長々フォリアやシルヴィアの迷惑になりたくなかった。
 こちらの世界でも、自分で自分の糊口をしのぎたかった。
 その為にも、労働階級の成人女性と見られる必要があった。

 けれどもそんな「自立」を考えていた事自体が、間違いだった事を、この時の私は気がつく事が出来なかった。
 砂時計の砂が自然と下に落ちるように、私と言う秘密はレジデの手をこぼれ、フォリアとシルヴィアの手の上に零れ落ち、今まさにシルヴィアの手の上からも溢れ出そうとしていた。

 その溢れ出た先に、何が待ち受けているかも知らないまま。