三章 峡谷の古塔 【1】

 いつの間にか眠っていたらしい。
 アーランと揺り起こされて、浅い眠りから目を覚ました。
 ゆらゆらと船の動きを感じながら、暗闇のつもりで目を開けると、眩いばかりの光が飛び込んできた。
 ――うわ、まぶしっ!
 あまりに暗闇に慣れた生活を送っていたせいか、目が光に慣れてくるのに時間がかかった。
 ようやく光に痛みを感じなくなった頃、恐る恐る目を開けると、その視界の先、まさに世界が一新していた。

 空は深い闇色が片隅に退場し、対の空では花が開くように柔らかな東雲色に変わりかけている。
 たなびく雲はその絶妙な色合いを、紫紺、薄紫、桃色と映し出す。
 両側に高くそびえ立つ崖の上から、色とりどりの紅葉が屋根のように枝を伸ばし、はらり、はらりと、その色合いを気まぐれに水辺に落としている。

 薄く靄がかった川を滑るように進む船が立てる、僅かな水音。
 夜明けを知らせる鳥の声。
 冷たくも清涼な朝の空気。
 世界の全てが、この深い渓谷の合間を流れる川を静かに彩っていた。

「……綺麗。」
 思わず口をついて出た日本語は、刻々と色を変える空にとけて消える。
 ――あぁ、世界はこんなにも綺麗だ。
 呆けるように見上げる幽玄の世界はあまりに現実感が無く、今まで見たどんな景色よりも美しく見えた。
「気に入ったか。」
 谷間に木霊す鳥の声に傾けていた耳に、割り込むように低い男の声が入り込む。
 それと同時に大きな暖かいモノが、視界を一度遮った。
 それが大きなフォリアの手だと言うことに気がつくのに一呼吸。
 幌を全開にして、景色が見えるようにしてくれた船の中、自分がフォリアの膝に頭を預けて、極上の景色を見上げているんだと気がつくのに、もう二呼吸かかった。
 もう一度視界が遮られ、フォリアの手が撫でるように自分の髪を漉いているのだと気がついた瞬間、ようやく本当の意味で目が覚めた。
「す、すみません!」
 あちこちにぶつかりながら慌てて体を起こすと、その拍子に大きく船が左右に揺れた。
 投げ出されるような大きな揺れに、バランスを崩して、外側にダイブしそうになった私の上半身を、呆れながらも軽く片手で受け止める。
「寝てても起きてても騒がしいやつだな。」
 腰を抱かれた形でそんな事を言われれば、――思わず全開になっていた幌をマッハの勢いで閉じたくなる。
 えぇと、歯軋りでもしましたでしょうか。私。
 いびきとか寝言だったら、真面目な話し、合わせる顔がないにも程がありますよ!?

 暗闇の中ならともかく、確実に寝不足で腫れぼったい寝起きの顔は、そもそも人様に会う顔じゃ確実にないし。
 しかも至近距離で向き合う男は、睡眠時間だけで言えば同じ位でも、まったくそのクオリティを損なっていない。
 体力が違うのか、疲労が蓄積されても色男っぷりが増すだけなのかは知らないが、その機能は私には搭載されていないらしい。
 別に言い寄りたい訳ではないので、綺麗に見られたいなどと可愛らしい事は思わないけど、それにしたって限度がある。
 それでも相手が全く気にしていない様なので、ため息をつきながら、開き直っておはようございますと挨拶をする。
 するとフォリアの濃紺の髪が、変則的な、不思議な動きをしているのに気がついた。
 左側だけ、……何と言うか、人的な動きをしているように見える。
 まじまじ見つめていると、その視線に気がついたフォリアがちょっと笑んで、左肩を下げるように動いた。
 ――ん?何?
 さらりと濃紺の髪が動き、その向こう、男の背中から小さな白い塊がぴょこっと姿を現した。
 可愛らしい大きな目、左右に揺れる長いシッポに赤ちゃんよりも小さな手。
 全身と同じく真っ白い翼。
 羽根付きの……リスザル!?
「キィ?」
 フォリアが手を差し伸べれば、するすると腕によじ登り、好奇心一杯の顔でこちらを見上げる。
 何コレ、めちゃくちゃ可愛いぞ!
 猿といっても、どでかいニホンザルとかとは違って、小動物特有の、何とも言えない愛らしさがある。
 触って良いものか高速で悩んでいると、私のマントの下からも、もぞもぞと同じ位の子が、楽しそうに出てきた。
 思わず手を差し伸べると、手のひらに温かな塊が迷わず飛び込んでくる。
「〜〜! 可愛い!」
 何だこの可愛らしい生き物は。
 抱き上げてよく見れば、二匹とも可愛らしい首輪をしている。
 子猫にするようにアゴの下をくすぐってあげると、嬉しそうに身をよじった。
「到着が遅れたんで、シルヴィアがハピナー達を迎えによこしたらしい。」
 ハピナーと言うのか、君達は。
 フォリアが二匹のハピナーを、すくう様にして空に押し上げると、軽やかに羽を使い、舟を先導し始める。
 早くおいでと言うように、パタパタと羽を動かしながら、こちらを振り返りつつ、入り組んだ崖の方に進んでいく。

 壁と屋根の部分に当たる幌を取り払ってるせいで、昨夜と同じ船とは思えない開放感だ。
 清浄な空気に思わず大きく深呼吸をしてみる。
 朝日と言うのは何でこんなに生気がチャージされるんだろう。
 時の館を出る事になってから知った様々な重しが、それだけで少し軽くなる気がした。
 ふと視線を感じて振り返ると、こちらを見ているフォリアと目があった。
「ずっと時の館から出られなかったろう。仕方がないとは言え、しかめっ面ばかりでは体にも良くない。」
 その少しほっとしたような、少しやりきれないような複雑な顔をしているのを見て、私の為にわざわざフォリアがこの景色を見せてくれたのを知った。

 ぐるりと天を仰ぐ木々を見つめる。
 はらりはらりと桜のように水面に落ちる紅葉が、この華やかな舞台がもう僅かであると告げている。
 冬の到来は直ぐなのだろう。
 フォリアの気遣いが嬉しく、また同時に少し悲しくもあった。
「レジデが迎えに来てくれるのは、思っているより先になりそうなんですね。」
 早ければ一月で迎えに行けると言っていたけれど、違うのだろう。
 きっとリバウンドが起きなくなる一月が過ぎ、冬が来て、春を迎える可能性もあるかもしれない。
「ここ最近、あいつは殆ど時の館にいたからな。少し世情に疎い。多分、今日明日中にでも結界補強の為、他の魔術師達が召集されるだろう。 そうなれば半年間拘束される可能性もある。……勿論俺もだ。」

 だからお前にこの景色を見せてやりたかった

 ため息と共に吐き出された小さな呟きは、静かな川面に落ちる落ち葉のように、私の心を静かに揺らし続けた。