二章 雨にけぶる街 【10】

 こちらの世界で困った事は沢山あるけれど、その一つに地理があげられる。
 測量技術の差のせいで詳細な地図が手に入らないし、距離感が全くわからない。
 例えば歩いて二十日程かかる。と言われても、舗装されてない山道を、山歩きに慣れたこちらの世界の人が、一体、どのくらいのペースで歩けるのか――全く想像すら出来ない。
 舗装されたコンクリートの道路を、普通に歩いて平均時速4キロ。と言うのは、元の世界の話しなわけで。
 更にその道のりを馬で走ったら……とか、馬車で走ったら……とかになると、完全お手上げだ。
 その前に日本じゃ歩かないし、二十日間も。
 だから今までの話から判っているのは、今いるファンデール王国が中央大陸の東海岸側にある事。
 そしてこの国の北の国境は、長く伸びた山脈で、匿ってもらうシルヴィアの住まいは、その山脈の麓にある事のみ。
 リバウンドのお陰で、馬車で北東に直行する予定が、一旦東に大きく迂回してから、川を伝って現地まで向かっている現状では、距離感なんぞわかるはずも無い。
 分かっている事は、私が現地で何かあった時、魔術学院のあった街まで自力で行く事は相当難しいと言う事ぐらいだ。

 船が進んだ分だけレジデから離れる。
 現地に着けばフォリアも時の館に戻る。
 この状況で不安に思わないといったら、嘘になる。
 幌の僅かな隙間から入り込む、凍るような風がまるで今の自分の現状を表しているように感じるのは、気弱になっているからだろうか?
 やらなきゃいけない事、やるべき事がハッキリしているのは、この際非常にありがたい。
 余計な事を考えず、それらに埋没すれば良いから。
 手の中の僅かな慰めのアルコール。心を落ち着ける静かな波音。隣で眠る男の体温と微かな息遣い。
 目を瞑れば、愛らしく優しげなレジデの笑顔も浮かぶ。
 ――まだ大丈夫。まだ頑張れる。

 空元気でも、強がりでも、動けているうちは大丈夫。
 目を閉じたまま、誰に言うことなく内なる声で呟き、口角を無理やり上げてみる。

 ――大丈夫。
 私は、生きていける。

 オレンジ色の西日が、近代的なコンクリートの部屋を照らし出す。
「どうしても院には進まないのかね。」
 豊かな白髪と同じ色の眉が、少し残念そうに、少し悲しそうに寄せられる。
 窓辺に置いた年代物のラジカセが作る長い影と、部屋に似合わない大きな安楽椅子。
 遅くに出来た孫娘の写真を研究室に嬉しそうに飾り、教室に出入りしている一人の生徒の行く末にも親身になる。
 そんな暖かで、誰よりも尊敬に値する恩師の前に立っているのは、昔の自分だ。
 まるで映画を見ているように、2人は私に気がつかない。
 疑問に思えば波音がかすかに聞こえる。
 ああ。これは夢なのだ。
 ここは懐かしい、大学の研究室なのか。

「君が子供の教育に携わりたくて、保育士資格だけでなく幼稚園教諭や小学校教諭まで取得した事も勿論知っているよ。子供のボランティアにも熱心だし、僕も君みたいな教えがいのある生徒を持ててとても嬉しい。だからこそ、違った形で子ども達の教育や問題点と向き合う方法もあると思うんだ。実際君が任意で出してくれた、児童心理学のレポートはとても見事なものだった。」
 机の横にあるレポートを手元に引き寄せて、しみじみ呟く。
「入学当時から成績優秀な君の事だし、大学と同じく奨学金は出る。院では補助金も出るから、学費は心配する必要はないよ。……資金的な問題で躊躇《ちゅうちょ》しているのかい?」
 後姿の自分が、小さくかぶりを振る。
 そう、あの頃は、まだこんなにも髪が短かった。
「つたない論文を先生にそこまで評価して頂けて嬉しいです。けれども本当は高校を卒業して専門学校で保育士資格を取ったら、すぐにでも働きたかったんです。こちらで沢山の勉強をさせて頂きましたが、これ以上先延ばしにはしたくないんです。」
 この時の気持ちは覚えている。
 もうこれ以上先延ばしには、どうしても出来なかった。
 早く現場に出たかった。
 切羽詰った様子の私に、ちょっと困ったように首をかしげると、
「君の気持ちも、もちろん大切だ。では、せめて幼稚園や小学校の勤務にしたらどうだい。それならやり方によっては大学院と併用する事も可能だし、セミナーや勉強会だけでも参加できる。けれども保育士ではそれも難しいだろう。」
 私の気持ちを損なわずに、研究の道も残してくれる。
 戦時中に無くした左膝下の代わりに、誰よりも熱い児童教育への思いを持ち続ける恩師の気持ちが嬉しく、誇らしかった。

「先生。無くした者こそ、誰よりも与えられる者になる。先生の著書のこの言葉を読んで、この大学に入学しました。私も先生の様に……与えられる人になる為に。」
 だから止めないで欲しいと、言葉にはしなかった気持ちを、これ以上、代えられないと思ったのだろうか。
 ぎしりと大きな安楽椅子に体をあずけながら、
「わかった。もうずっと前から決めていたんだね。 君の好きなようになさい。現場に出てから思う事もあるだろう。
 何かあったら、いつでも遊びにおいで。」
 そう言ってくれた。

 優しく笑ったあの笑顔はもういない。
 定年を過ぎてからも教育熱心だった先生は、遊びに夢中になった子どもが車道に出たのを助け、帰らぬ人となった。
 先生。
 誰よりも与えられる者になりたかった。
 無くした物を埋めるように、がむしゃらに勉強した。
 働いた。
 そして今、また大きなものを失おうとしています。
 そんな私に、与えられる者になれる日が来るのですか。
 問うても、暗闇から返事は無い。
 いつの間にか周囲は懐かしい教室ではなく、荒れ狂う嵐の海になっている。
 厚く雲の垂れ込めた空と闇色の海の区切りさえつかない。
 生き物のようにうねる波間に落ちながら、それでも叫び問い続ける。

 先生。私はそれでも生きていて良いのでしょうか。