二章 雨にけぶる街 【9】

 低い重低音混じりだった水の音が、船の振動と共に、耳に心地よい波の音に変わる。
 どうやら地下道から川に出たらしい。
 しばらく息を潜めて外の様子を伺っていたフォリアが、大丈夫そうだなと呟いた。
「無事に外に出たな。……寒くないなら少し外を見てみるか?」
「見ても大丈夫なら見たいです。」
 やはりこちらの世界の風景には興味は尽きない。
 左に座るフォリアが片手で幌の一部を開けると、隙間からは色とりどりの光が淡く見えた。
 大分夜も深まったという時間なのに、霧の向こうはまだまだ宵の口といわんばかりの雰囲気だ。
 流石に全開には出来ないらしく、小さな隙間から覗き込もうとした私を手で制す。
 ここからじゃ見にくいんだけどな。あまり前に出るなって事か?
 と、若干不満に思った瞬間、子供の様に右腕一本ですくい上げられるようにして、いきなりフォリアの膝の上に座らせられた。
「ちょ、ちょっと重いですよ!」
 何より近い!
 すぐそばにある顔に抗議すると、静かにと軽くいなされ、外を見るように促される。
「狭いから我慢しろ。……今のお前は子供にしか見えん。安心しろ。」
 文句を言って良いのか、恐縮して良いのか、安心して良いのか首をかしげながら、しぶしぶ幌の隙間から外を眺める。
 地下道から船が出てくるのを見られない為に、一時的に発生させた霧だったのだろう。
 もう地下道から出たせいか、船の周りに異常に霧が立ち込めていることもなく、自然と薄く霧がかった川の向こうには、色とりどりの光が溢れる町並みが見えた。
 視線を後方にやれば、その中でも一つ大きなお屋敷が見える。
「あそこが今いた所ですか?」
「そうだ。この川を下ると大きな貿易港に出る。アンバーはちょうど街道とその貿易港との交流地点の街だ。」
 アンバーと言うのか。この街は。
 それなりに川幅があるせいで、乗っている船から街行く人の顔が見れる程には川岸は近く無い。
 レジデ以外の獣人族や、元の世界ではついぞお目にかかったことが無い様な髪の色の人々を見たい気持ちを諦め、しげしげと町並みを観察する。
 低いレンガ造りの町並みは、以前馬車の中から見た無骨な石造りの街よりも、よっぽど生活感を感じさせる造りだ。
 写真でしか見たことのない、中世ヨーロッパの町並みに近いんじゃないだろうか。
 レンガで整備された川沿いには、所どころに荷物の山が見え、いかにも貿易港へこれから荷物を持っていく風情だ。
「先ほどの館は随分しっかりした造りでしたが、こちらの世界では――男性が女性を快楽の為に購入するのは、合法なんですか?」
 寒さも気にならないぐらい、夢中で町並みを眺めながら、ずっと気になっていた事を聞くと、座っていたフォリアの体がいきなり揺れ始めた。
 顔を向けると、秀麗な顔をゆがめ、声を殺しながら笑っている。
「そういうのは、娼館と言うんだ。」
 ひとしきり笑った後、新たな単語を教わる。どうやら誤魔化す気は無いらしい。
「レジデとこんな会話したことないので、その手の単語は語彙不足なんです。」
 幌を閉めて、フォリアの膝の上から体を元の席に戻しながら、軽くふてくされて言う。
 生活習慣、政治経済。どれだけの話をレジデとしたか分からない。
 博学な彼はあの手この手で色々な話をしてくれた。
 けれども、大人なら知って当然の、こんな単語は一度として使う機会がなかったのは、しょうがない。
 知りたい事は山ほどあったし、たとえ時間があったところで、あの愛らしいレジデとそんな会話をすること自体、想像さえ出来ない。
「非合法ではないな。あの館はこの街一の高級娼館だ。夜を共にする以外にも歌や遊戯を楽しむ場所でもあるな。」
 キャバクラと風俗が一緒の場所……と考えるよりは、昔の吉原みたいなものだろうか。
 最上級遊女である花魁と閨を共にするには、客にもそれなりの格が必要……みたいな?
 フォリアの言い方だと高級娼館では無い売春宿は、また違うのだろう。
 確かにフィーナが歌と踊りに長けていても、なんら不思議はなさそう。むしろ見てみたい。
「世界最古の職業は、異世界でも同じって事ですね。」
「どういう意味だ?」
「何でそう言う様になったかは知りませんが、私の国で『世界最古の職業』と言う時は、大概娼婦とスパイの事を指します。」
 なるほど、と小さく笑う。
「人間が社会生活を営めば、自然とそこに発生する『職業』というわけか。」
 現在の日本で売春は違法だという話は、あえて割愛する。
 ではお前の国で合法化されている夜の仕事の具体的な例を挙げろ。といわれても困るし。

「実際、フィーナ達は両方兼任しているんじゃないんですか?貿易港と街道の交流地点と言うことは、海外や国内の重要な取引がされる場所でしょう? 隠し通路や治療結界も、裏口や感染症の治療用なんて可愛いものではなく、明らかにもっと重要度が高いように見受けられましたし。少なくとも、ただの男性用高級娯楽施設じゃないことは、確かですよね。」
 思いついたままを言葉にのせて話し続けて、ふとフォリアを見れば、面白そうにこちらを覗き込む顔と視線がかち合った。
「何故そう思った? お前はこちらの世界をよく知らない。売春宿に目立たない裏口がある事も珍しくないし、裏道もご禁制の品物を扱う為の通路――とは考えなかったのか?」
「人目につかない為の裏口ならば、客室の中ではなく、スタッフルームのような場所に出るでしょう? 人身売買や密輸入の品物を運ぶ為の通路にしては、余りに狭く悪路ですし、あの道には厚く埃が積もっていました。 日常的に使う道には到底思えません。」
 小さく肩をすくめて答えれば、相手は益々面白そうに群青の瞳を細め、問い返す。
「よく見てるな。……ならば何故フィーがスパイをしている可能性があると思った?」
「あの裏道があったから勘で……というのが正直な所ですが、フィーナに抱きしめられた時の力の強さや動きの素早さ、こんな訳ありの裏道を我が物顔で使えるフォリアに何か調達していたところから、ただの高級娼婦では無いんじゃないかなぁと。」
 なるほどと小さく笑うと、ちいさな子供にする様に頭の上をぽんぽんと撫でられる。
「子どもなのか大人なのか、どんな階級のどんな人間なのか、さっぱり見当がつかない。今のお前は何処に行っても目立つだろうな。」
 しみじみと呟かれた。
 むぅ。
「こちらの常識に疎いのは、努力してこれから覚えます。あと発音も。」
「それだけだったら簡単だったがな。上流階級にも見えんが、学が無いにしては目端が利きすぎている。発想自体も突飛だが的を射ているし、外見もそこそこの出に見える。……正直どの方向に持っていけば良いかとけ込めるのか、皆目検討がつかん。いっそ記憶喪失とかの方が楽に馴染めたろうな。」
 そんな都合よく記憶喪失なんかになれるかい。

 結局、こちらの人に混ざって暮らせるようになるには、相当な努力と注意が必要らしい。
 波の音を聞きながら、小さくため息を一つ波間に落とす。
 ――本当にこの人は、真実から目をそらさせない。
 レジデが帰路を探し出す時間よりも、私がこちらの世界に馴染む時間の方が早いと、言外に教えている。
 馴染めるようになる事を前提とする会話を続けながら、湧き上がった元の世界への郷愁の思いを……深く暗い心の一番奥に、そっと沈めた。 低い重低音混じりだった水の音が、船の振動と共に、耳に心地よい波の音に変わる。
 どうやら地下道から川に出たらしい。
 しばらく息を潜めて外の様子を伺っていたフォリアが、大丈夫そうだなと呟いた。
「無事に外に出たな。……寒くないなら少し外を見てみるか?」
「見ても大丈夫なら見たいです。」
 やはりこちらの世界の風景には興味は尽きない。
 左に座るフォリアが片手で幌の一部を開けると、隙間からは色とりどりの光が淡く見えた。
 大分夜も深まったという時間なのに、霧の向こうはまだまだ宵の口といわんばかりの雰囲気だ。
 流石に全開には出来ないらしく、小さな隙間から覗き込もうとした私を手で制す。
 ここからじゃ見にくいんだけどな。あまり前に出るなって事か?
 と、若干不満に思った瞬間、子供の様に右腕一本ですくい上げられるようにして、いきなりフォリアの膝の上に座らせられた。
「ちょ、ちょっと重いですよ!」
 何より近い!
 すぐそばにある顔に抗議すると、静かにと軽くいなされ、外を見るように促される。
「狭いから我慢しろ。……今のお前は子供にしか見えん。安心しろ。」
 文句を言って良いのか、恐縮して良いのか、安心して良いのか首をかしげながら、しぶしぶ幌の隙間から外を眺める。
 地下道から船が出てくるのを見られない為に、一時的に発生させた霧だったのだろう。
 もう地下道から出たせいか、船の周りに異常に霧が立ち込めていることもなく、自然と薄く霧がかった川の向こうには、色とりどりの光が溢れる町並みが見えた。
 視線を後方にやれば、その中でも一つ大きなお屋敷が見える。
「あそこが今いた所ですか?」
「そうだ。この川を下ると大きな貿易港に出る。アンバーはちょうど街道とその貿易港との交流地点の街だ。」
 アンバーと言うのか。この街は。
 それなりに川幅があるせいで、乗っている船から街行く人の顔が見れる程には川岸は近く無い。
 レジデ以外の獣人族や、元の世界ではついぞお目にかかったことが無い様な髪の色の人々を見たい気持ちを諦め、しげしげと町並みを観察する。
 低いレンガ造りの町並みは、以前馬車の中から見た無骨な石造りの街よりも、よっぽど生活感を感じさせる造りだ。
 写真でしか見たことのない、中世ヨーロッパの町並みに近いんじゃないだろうか。
 レンガで整備された川沿いには、所どころに荷物の山が見え、いかにも貿易港へこれから荷物を持っていく風情だ。
「先ほどの館は随分しっかりした造りでしたが、こちらの世界では――男性が女性を快楽の為に購入するのは、合法なんですか?」
 寒さも気にならないぐらい、夢中で町並みを眺めながら、ずっと気になっていた事を聞くと、座っていたフォリアの体がいきなり揺れ始めた。
 顔を向けると、秀麗な顔をゆがめ、声を殺しながら笑っている。
「そういうのは、娼館と言うんだ。」
 ひとしきり笑った後、新たな単語を教わる。どうやら誤魔化す気は無いらしい。
「レジデとこんな会話したことないので、その手の単語は語彙不足なんです。」
 幌を閉めて、フォリアの膝の上から体を元の席に戻しながら、軽くふてくされて言う。
 生活習慣、政治経済。どれだけの話をレジデとしたか分からない。
 博学な彼はあの手この手で色々な話をしてくれた。
 けれども、大人なら知って当然の、こんな単語は一度として使う機会がなかったのは、しょうがない。
 知りたい事は山ほどあったし、たとえ時間があったところで、あの愛らしいレジデとそんな会話をすること自体、想像さえ出来ない。
「非合法ではないな。あの館はこの街一の高級娼館だ。夜を共にする以外にも歌や遊戯を楽しむ場所でもあるな。」
 キャバクラと風俗が一緒の場所……と考えるよりは、昔の吉原みたいなものだろうか。
 最上級遊女である花魁と閨を共にするには、客にもそれなりの格が必要……みたいな?
 フォリアの言い方だと高級娼館では無い売春宿は、また違うのだろう。
 確かにフィーナが歌と踊りに長けていても、なんら不思議はなさそう。むしろ見てみたい。
「世界最古の職業は、異世界でも同じって事ですね。」
「どういう意味だ?」
「何でそう言う様になったかは知りませんが、私の国で『世界最古の職業』と言う時は、大概娼婦とスパイの事を指します。」
 なるほど、と小さく笑う。
「人間が社会生活を営めば、自然とそこに発生する『職業』というわけか。」
 現在の日本で売春は違法だという話は、あえて割愛する。
 ではお前の国で合法化されている夜の仕事の具体的な例を挙げろ。といわれても困るし。

「実際、フィーナ達は両方兼任しているんじゃないんですか?貿易港と街道の交流地点と言うことは、海外や国内の重要な取引がされる場所でしょう? 隠し通路や治療結界も、裏口や感染症の治療用なんて可愛いものではなく、明らかにもっと重要度が高いように見受けられましたし。少なくとも、ただの男性用高級娯楽施設じゃないことは、確かですよね。」
 思いついたままを言葉にのせて話し続けて、ふとフォリアを見れば、面白そうにこちらを覗き込む顔と視線がかち合った。
「何故そう思った? お前はこちらの世界をよく知らない。売春宿に目立たない裏口がある事も珍しくないし、裏道もご禁制の品物を扱う為の通路――とは考えなかったのか?」
「人目につかない為の裏口ならば、客室の中ではなく、スタッフルームのような場所に出るでしょう? 人身売買や密輸入の品物を運ぶ為の通路にしては、余りに狭く悪路ですし、あの道には厚く埃が積もっていました。 日常的に使う道には到底思えません。」
 小さく肩をすくめて答えれば、相手は益々面白そうに群青の瞳を細め、問い返す。
「よく見てるな。……ならば何故フィーがスパイをしている可能性があると思った?」
「あの裏道があったから勘で……というのが正直な所ですが、フィーナに抱きしめられた時の力の強さや動きの素早さ、こんな訳ありの裏道を我が物顔で使えるフォリアに何か調達していたところから、ただの高級娼婦では無いんじゃないかなぁと。」
 なるほどと小さく笑うと、ちいさな子供にする様に頭の上をぽんぽんと撫でられる。
「子どもなのか大人なのか、どんな階級のどんな人間なのか、さっぱり見当がつかない。今のお前は何処に行っても目立つだろうな。」
 しみじみと呟かれた。
 むぅ。
「こちらの常識に疎いのは、努力してこれから覚えます。あと発音も。」
「それだけだったら簡単だったがな。上流階級にも見えんが、学が無いにしては目端が利きすぎている。発想自体も突飛だが的を射ているし、外見もそこそこの出に見える。……正直どの方向に持っていけば良いかとけ込めるのか、皆目検討がつかん。いっそ記憶喪失とかの方が楽に馴染めたろうな。」
 そんな都合よく記憶喪失なんかになれるかい。

 結局、こちらの人に混ざって暮らせるようになるには、相当な努力と注意が必要らしい。
 波の音を聞きながら、小さくため息を一つ波間に落とす。
 ――本当にこの人は、真実から目をそらさせない。
 レジデが帰路を探し出す時間よりも、私がこちらの世界に馴染む時間の方が早いと、言外に教えている。
 馴染めるようになる事を前提とする会話を続けながら、湧き上がった元の世界への郷愁の思いを……深く暗い心の一番奥に、そっと沈めた。