二章 雨にけぶる街 【6】

「随分と呆けているが、生きているか?」
 鮮やかな朱赤美女が消えていった扉をぼーぜんと見ていたら、いつの間にかお茶を机に並べたフォリアに声をかけられた。
 そういえばさっき帰ってきたとき、何かトレイの様な物を持っていた気がする。
「まだ少し顔が赤いぞ。実はお前こそ同性愛の趣味でもあるのか?」
 面白そうに言いながら、自分用の琥珀色の飲み物を傾ける。
 間接照明だけの明かりの落とされた部屋に、強いアルコール独特の甘い香りがした。
 随分とアルコール度数の強そうなお酒だけど、外見どおりアルコールにも強いのか。
「同性愛の趣味は無いのですが……こちらに来て初めてお会いした女性としては、幾分……刺激が強すぎました。」
 グラスを傾けている彼に目線に促されて向かい座ると、ふんわりと優しい香りのするお茶が差し出された。
 優美な線を描くカップに口をつけると、動揺していたのが大分おさまってきた。
 私の正体が不明だと言うなら、フォリアも充分不審者だ。
 フォリアの動きは大雑把な動きなのに、まるで何かの作法のように一つ一つの動作が洗練されていて、自然と目が行ってしまう。
 魔術師なのは知っているけれど、レジデと違ってどちらかと言うと「剣を使う人」の様に思えるし、充分な教育を受けて育ったのは間違いないのに「高貴な方」にあるであろう選民思想や線の細さを全く感じない。
 それにしても、いくら短時間とは言え、何か下手な事を言って無かっただろうか。
 冷静になった分だけ心配になってきた。
「短い時間だったので、あまり変な事はいっていないと思うのですが、大丈夫でしょうか。」
「あいつならば大丈夫だ。仮に何か思う所があったとしても、ああ見えて口が堅い。」
 ふむ。それを聞いて少し安心した。
 確かに旧知の仲って感じだったし、問題があるなら彼もこんなに落ち着いていないだろう。
「それよりも良く髪を乾かしておけ。ここから現地まで船を使う。冷えるぞ」
 船!
 と言うことは、この館は川辺にあるのか。
 すっかりまた馬車に乗るものだと思っていたから、ちょっと意外だった。
 確かに馬車の中も寒かった印象があるし、現地に着きました、風邪ひきましたじゃ、仕事どころじゃないもんね。
 しっかり暖まろう。
 残ったお茶に口をつけながら、殆ど乾いている髪にもう一度タオルをあてる。
 こっち来てから、痛んだなぁ髪。
 フォリアには色々聞きたい事はあるけれど、何から聞くべきか。そして最低何を押さえておくべきか。
 現地にたどり着くまでの時間は無限ではない。
 現地の様子、今後の連絡方法、仕事内容、禁忌事項。
 はてさて、何を聞こうか。
 わしわしとタオルを持つ手を動かしながら、ぼんやりとそんな事を考えていると、フォリアから話を切り出された。
「トーコはアランタトルの神話を聞いた事はあるか?」
「アランタトル?」
 聞きなれない単語に、首をかしげる。
「神話ですか?いえ、神話や物語の話まではレジデとは殆どしていません。」
 こちらの世界は充分私にとって神話や物語の世界だけれど、人が住むところに信仰あり。
 神話や宗教はこちらにも山ほどあるのだろう。
 しかし、一体何故急に?
 するとフォリアは椅子から背を離し、グラスを机に置くと、その長い指を琥珀の中に浸した。
「アランタトルと言うのは、気まぐれで人間に光を与え、天空の世界から追放された、永遠の子ども名前だ。」
 グラスにくぐらせた指で、机の上にアランタトルとアーランのスペルを綴る。
 どうやらアーランと言うのは、アランタトルからとった名前らしい。
 上下に並べてみると類似性がある。
 こちらでは有名な神話だが――と前置き一つ。
 その背をまた椅子に預けると、フォリアは落ち着いた低い声で夜の神話を語り始めた。

 その昔、地上にまだ光が無い時代、天空には今よりも星々が光り輝き、双子の月神の元、夜の世界も昼間の様に輝かんばかりだったと言う。
 しかし天空の一族とは言え、まだ子どものアランタトルは全く光が無い地上に、気まぐれで星屑をまきはじめた。
 きらきら きらきら
 地上にきらめく光が面白くて幾度も繰り返すうちに、無数にあった天の星々が少なくなっている事に、アランタルトは気がついた。
 慌てて星屑のランプに地上の光を集めたが、時既に遅し。
 人々は光を手に入れ文明を築き上げてしまい、神々の逆鱗に触れたアランタトルは、その姿のまま、天空の世界を追われてしまう。
 地上に落とされたアランタトルは、少年とも少女ともつかない子どもの姿で、地上に落とした星屑を未だに探し続けている。
 いつか天空に帰れるその日を夢見ながら。

 揺らめく光の中、朗々と話す色男の声に一瞬別世界に行きそうになりながら、終わりの合図と共に小さく拍手を返す。
 いやいや、これで楽器でも弾けたら吟遊詩人とかでも食べてけますぜ、旦那。
「面白いですね。細かい所は違いますがテッラにも人間に火を与えて磔刑になった神が出てくる神話がありますよ。」
 子供向けの絵本には「ゼウスに怒られる」程度の描写だったけれど、ギリシャ神話のプロメテウスは人間に知恵と火を与えて、かなり手酷い永遠の拷問を受けることになるし、聖書では神の禁止していた知恵の実を食べさせた蛇は、両足を切断されてしまう。
 何処の世界も人間に知恵を与える事は、神々の本位ではなかったのかもしれない。
 まぁ、アランタトルは神では無かったのかもしれないけれど、天空に住んだり、人間に知恵を与えて罪人扱いされているんだから似たようなものだろう。
「他にも、地上に落とされたアランタトルの話は幾つかあるな。有名なところだと…」

 遊んでいた子どもが不思議に光る星のカケラを見つけると、何処からとも無く少年が現れた。
 その子どもは、星のカケラをどうか譲ってくれと頼まれたが、嫌がって家に帰る。――不治の病の母に見せたら喜ぶと考えたからだ。
 しかし家に帰ると、先ほどの少年が不思議なランプを持って現れ、再度請う。
 子どもの母の病を治せば、星のカケラを渡してくれるかと。

「それで病床の母親は治るんですか?もしそうだとしたら、星のカケラさえ見つける幸運があれば、アランタトルが願いを叶えてくれる……なんだか光を与えてくれた事と良い、随分、人間に都合が良いですね。それなのにあくまで天界の罪人であるということは、こちらの宗教の主神は別にいるんですよね?」
 悪さをしたら懲らしめられる、正直者は報われる。
 アリとキリギリスではないけれど、神話や昔語りには因果応報の原則が織り込まれているのが常だ。
 病床の母にと薬草を探し続ける健気な子供が、雪の中に光り輝く星のカケラを見つけた……というくだりでもあるなら、話は別だけれど。遊んでいた子供が偶然見つけるなら、宗教的には一体何を示唆しているのだろう?
 少し不思議に思って聞くと、返事が無い。
 髪を拭いていたタオルの下から顔を出してフォリアを見ると、呆然としたような風情でこちらを見ていた。
「何か変な事……言いました?」
「初めて聞いた神話の意義まで思い至るのが、テッラ人の標準的な思考回路なのか?」
 呟くように問われる。
 いやいや、まて。
「そんなご大層なものでは無いです。職業柄ですかね?小さな子供を相手する仕事だったので、物語に触れる機会が多かったんですよ。」
 口元に軽く手を当てて何か考え込む風に黙り込むフォリアを見ながら、乾いた髪をまた深緑色の飾り紐で結わきなおす。
 宗教ネタはNGだったんかな……。
 何となく居心地が悪い感じがして、もぞもぞと椅子に座りなおすと、ようやくフォリアが口を開いた。
「すまない、驚かせたな。お前の言った事は、丁度解釈で宗教問題になっているんだ。――覚えているか?こちらの世界で最大の宗教集団の名前を。」
「……『光の教団』ですか?……時の館に侵入をするほど、世界のカケラに強い興味がある。」
 今回急いでレジデと離れ離れになった主因で、フォリアに時の館で侵入者と間違えられた原因。
 それが何かと言いかけて、ぐるぐると言葉か脳裏を駆け巡る。
 アランタトル・光を与える・星のカケラ・光の教団
 そして、テッラ
 もしかして――。
 呟いた私の声に夜色の強い視線が返る。
「そう。まだカケラがテッラと言う、一つの世界から来た物ではなく、複数の異世界から来ていると考えられていた頃、世界のカケラは『星のカケラ』と呼ばれていた。」
 カランと氷の踊る音がやけに大きく部屋に響く。
「お前が一番警戒するもの。それはアランタトルをあがめる光の教団だ」