二章 雨にけぶる街 【5】

 体もホカホカ、お腹もいっぱい。
 幸せだなぁ
 出発まで楽にしていろと、風呂から上がれば小さなメモが一つ。
 そしてその横には軽食と小さな果物が二つ、机の上に並んでいた。
 そう言えば、最後に食事を取ったのはいつだろう。
 風呂上りの体に、カシュッと小さな音と共に、甘酸っぱい果実が染み渡る。
 まさに甘露。まさに至福。
 体を温めて、満腹で、1人になって、いかに自分がガチガチに力が入っていたか痛感した。
 ふんわりとしたソファに座り、このまま溶けてしまいたい。
 半日。いや1時間で良い。
 このままこの1人の結界に、誰も入ってこないで欲しい。
 瞑った目の裏にふわふわの毛並みと、ピンとはったシッポが浮かぶ。
 レジデはどうしているだろう。
 きちんと食事をしてるだろうか。
 ――もう少し時間があったら日持ちのする物でも作ってきたんだけどな。
 そんな事を考えながら少しの間ウトウトしていたんじゃないだろうか。
 カコンという扉の音と、扉の向こうから声が聞こえた。
「フォリア?」
 残念ながら1人の時間は終了らしい。
 惜しみつつ慌てて扉を開けようとして一瞬、扉の前で戸惑った。
 鍵が掛かってるよ、この扉。
 えっーと?
 モチーフを探してどうのって言ってたっけ?
 目星をつけて取っ手の近くにある小さな鳥の意匠を触ると、くちばしに咥えていた石の色がうっすら変わって、ゆっくりと内側に扉が開いた。
 小さな一つ一つの細工が相変わらず綺麗。
 そんな扉のモチーフに夢中になっていたので
「フォリアって呼び捨てにするって事は……やっぱりあんた従者なんかじゃないね!?」
 扉の裏から伸びた白い手に反応するのが一瞬遅れた。

 勢い良くつかまれた肩の痛みもそのままに、手の主をぽかんと見上げる。
 微妙に陰影をつけた朱赤の髪。
 深い紫の瞳につややかな肌。
 豊満なバストに対して、これでもかという位くびれたウエストは、女なら誰でも憧れるラインだ。
 燃え上がるよなオーラと共に、そのしなやかな体を若草色のドレスが絡みつくように巻きついている。
 ――美女だ。美女。まさしく美女。
 でももしかしたらニューハーフの美女かもしれない。
 こちらの世界に来て初めて見た女性は、そう思ってしまうほどの高身長、そして濃いフェロモンの持ち主だった。

「ちょっと何ポカンとしてんのよ」
 ちょっと気の強そうな顔を呆れた様にしかめ、軽く首をかしげるその仕草までもが、色っぽくて魅力的だ。
 けれども、その言葉が非常に聞き取りにくい。
 ぼそぼそ話しているわけでは無く、私が彼女の発音についていけてないのが原因だ。
 今言われた言葉も、何度か自分の中で反芻して、ようやく意味が判った位だし。
 考えたら私がこちらの世界の言葉に不慣れと知っている男性二人としか話した事が無いのだから、当然かもしれない。
 彼女が話している言葉こそ、ネイティブの会話スピードなのだろう。
「すみません、今フォリアはいません。」
 とたんに自分が話している言葉がきちんと通じるのか不安になって、軽く緊張が走る。
 ゆっくり発音に意識しながら正確に話すと、寄せられていた赤い眉が緩んだ。
「あんた珍しいね。言葉が上手く話せないの?」
 しげしげと見つめられる。
 小首をかしげた何気ない動作で、深く切れ込んだドレスの胸元が己の存在を示すかのように、妖しく揺れた。
 こちらの世界にブラジャーは無いのか!?
 女同士とは言え、身長差から目のやり場に困る。
 確実に175センチ位はある彼女の胸元は、まさにこう、私の顔の前にあるわけで。
 全くスケ感の無い生地のドレスなのに、彼女の胸の突起の凹凸までしっかり判るのだ。
 色んな意味で微妙におろおろしている私を、さっきまでの剣呑な雰囲気を脱ぎ捨てた美女が興味津々と迫ってきた。
「フォリアが男に走ったのかと思ったけど、そうじゃ無いっぽいね。」
 ペタペタと私のほっぺたや髪を触りながら、面白そうに話し続ける美女の言葉の半分以上意味が判らんが、どうやら
「フォリアが同性愛者になったか確認しにきて」
「色気皆無の私を見たら安心した」的な事を言っているようだ。……多分。
 まったくレジデとこういう色恋の会話してないから、こっち方面の語彙が無いんだよ〜。
 どんどん機嫌が良くなるフェロモンたっぷりの美女は、ひとしきりにじり寄ってきた後、私と同じ目線の高さに目を合わせ、フィーナと名乗った。
「ええと。はじめまして、フィーナ」
 両腕をにじりよるフィーナに握られて、微妙に上半身が後ろに反り返った状態から首だけでぺこりと挨拶をする。
 自分の名前を名乗って良いのだろうか。
 とっさに返せず逡巡していると、フィーナはきらっきらした目で、ぐいっと体を近づけてきた。
 ……この顔には覚えがある。
 物凄く見覚えがあるぞ。
 猫好きの子供が、猫を見つけたところ……と言うよりは、
「ねぇ。良く見ると可愛い顔立ちしてるけど、何歳?年上には興味ないの?」
 やっぱりーーーー!
 自分の年の半分しかいってない、某少年アイドルグループのファンをしている保育士の先輩が、こんな風な顔で同じファンのママさんと話してたよ、たしか。
 男だと思われて、男と女のいざこざに巻き込まれるのも御免だけど、だからと言って同性に迫られても困るわけですよっ。
 と、取りあえず一度お引き取り願おう。
 微妙に身の危険を感じ決意する。
 だって何か目が爛々としてませんか!?
「フィーナ、すみませんがフォリアがいないので……」
 そしてこの手の類の女性に共通するのは、このモードに入ると話を聞かなくなる事らしい。
「オロオロしちゃって、可愛いねぇ」
と言う声と共に、思ったよりもかなり強い力で引っ張られ、無理矢理頭を抱えられた。
 ぼふっと言う音と共に、豊かな弾力と香水の匂いを顔全体で体感する。
 あまりの事に、全思考が停止。
 人生初。女性の胸の谷間に顔をうずめました。
 もがもがと抵抗する私の事は意に介さず、綺麗な黒髪だねぇと上機嫌な声と共に、益々力が強まる。
 ちょいとねーさん、大分力強いけどリアル女性ですよね!?
 こちらに豊胸のシリコン技術とか無いですよね!?
 実は生まれた時の性別は、男性だったりしませんよねぇ!?

「俺は誰もこの部屋に近づけるなと言っておいたんだが、どうしてこうなってるんだ。フィー。」
 じたばた暴れていると、後ろから、呆れたようなフォリアの声が聞こえる。
「アンタに頼まれた物が届いたから持ってきたのよ。客が入ってるから直ぐに退散するわよ。」
「あれか。丁度良いと言えば丁度良いんだが、……取りあえずソレを放してくれないか、一応、病みあがりなんだが」
 惜しいねぇという声と共に力が緩む。
 ぷはっと足りてない息を吸い込むと、呆れた顔をしているフォリアの前で、うちゅぅと頬にキスをされる。
「具合が悪くて担ぎ込まれた子がいるってのは、本当だったのかい。」
「……俺は男には走らないと言っているだろう。お前ソレを確かめに来たのが本題だろう。」
「当たり前じゃないのさ。でもこの子気に入っちゃった、まだ女も知らないんじゃないかい?」
 なでなでと頭を撫でられてから渋々と開放される。
 恐るべし異世界。
 元の世界で全く体験出来なそうな事ばかりが起きる。
 ソファの後ろの安全圏まで逃げると、面白そうに笑われた。
「この子の名前は?」
「……アーランだ。」
 フォリアが代わりに答えてくれる。
 どうやら取りあえずの私の名前はアーランらしい。
 まぁ、マイケルとかよりはシックリ来るか。
 改めてペコリと頭を下げると、視界の端で何かが光った。
 思わずその方向に顔をやると、豊かな胸元を飾っていたネックレスの石が、彼女の髪と同じ色にチカチカと光りだした。
 ――扉の石といい、首飾りといいこちらの石は光る加工が簡単に出来るものなのかもしれない。
 感心して見ていると、フィーナはめんどくさそうに軽く舌打ちをすると、フォリアの手に小さな布袋を押し付けた。
「御代は次回に上乗せで良いよ。……それかこの子を連れてきてくれるんでも良し。」
 何か取引材料に使われてるし。
 体格の良いフォリアと、長身美女のフィーナが並ぶと、ハリウッド俳優もかくやという感じだ。
 二人が並ぶことで、フォリアの鍛えられた体の厚みやフィーナの体の曲線が相乗効果で引き立てられている。
 暫く二人で何かを話した後、紅のさされた唇を男の首筋に落として、艶やかにフィーナは去っていった。
 花の香りと、また会いましょうという言葉を残して。