二章 雨にけぶる街 【4】

 ぽっかりと、深海までたどり着きそうな深い眠りから、途切れるように目が覚めた。
 大小様々な形のクッションに埋もれるようにして寝ていたらしい。
 まるでゆったりと抱きしめられているような感覚で目が覚めたのに、辺りに人の気配がまったくしなかった。
 のろのろと視線を右に左にと動かすけれど、先程よりも明かりを落とされた巨大な寝台の中に収まっているのは、自分ひとりだ。
 どこ……行ったんだろ。
 小さく体を伸ばすと、ここ数ヶ月味わう事の出来なかった深い眠りの残滓を、愛おしむ様に一瞬反芻する。
 そのままむっくりと起き上がってみると、体の上を皇《すべら》かな感触が伝い降りた。
 ――シルクのガウン?
 気がつけば、いつの間にか、てろんとした生地の薄いサーモンピンクのローブを身にまとっていた。
 素肌に身にまとったら、さぞかし着心地が良いであろう。とろける様な柔らかな感覚がくすぐったい。
 胸元で緩めてあったさらしを、ガウンの下で器用に巻きなおすと、体を動かす度に、筋肉疲労が体中に響く。
 痛みと共に昨日の一連のことを思い出せば、体を見られたことに対する可愛らしい羞恥心なんてモノでは無く、どえらく醜態を晒してしまった事に対する申し訳なさと、居たたまれなさで悶絶死しそうだ。
 頭を抱えながら自分の身なりを点検すると、見当たらないのは上に着ていた洋服だけで、膝までのパンツも靴下もそのままだ。
 折角のガウンの魅力が台無しだけれど、正直ほっとした。
 ――これで素肌にガウン一枚で寝てた日には、どんな顔して会えと言うのだ。
 ずりずりと4畳ほどもある巨大な寝台の上を膝で移動する。
 誘うようにめくり上げられていた 寝台を包む帳《とばり》の間から顔を出すと、小さな光で浮き上がった部屋の中には、予想通り誰もいなかった。

 随分広いけど、ホテルなのかな?
 白い壁に焦げ茶の柱。どことなくオリエンタルな感じの内装に質の高いリネン。シンプルだけれども高級そうなシックな家具。さりげなく置かれた香や、小さな生花。
 随所に見られる小さな気遣いが、なんとも言えない癒しの空間を作っている。
 雑誌でしか見たことのない、海外の高級リゾートホテルがこんな感じだった気がするけれど、ホテルと断言できないのは、当然あるべきはずの窓が無いからだ。
 おかげで今が昼なのか夜なのか、全く分からない。――この部屋には時計も無いのだ。
 間接照明やインテリアのおかげで、圧迫感は全く感じないし、まるでこの部屋が快適な穴蔵のような気さえするけれど、1人で部屋の真ん中で突っ立って途方に暮れている状況に変わりは無い。
 フォリアを探しに部屋を出るような真似はしない方が良いんだろうけど、寝直すわけにもいかないし。
 所在なさげにうろうろと部屋の中をひとしきり歩いた後、小さなランプに促されるように、ドアの無い小さい隣の部屋を覗いて見る。
 そこには大きな鏡台とスツールが置かれ、小机の上にはタオルや見覚えのある白いシャツが綺麗に畳まれてあった。

 ――これ、どう見ても昨日着ていたシャツだよね。
 広げてみると、花の香りと共に見覚えのある深緑色の飾り紐が落ちる。
 間違いない。
 どうやら誰かが洗濯しておいてくれたらしい。
 フォリアが戻ってくる前にと、ローブを脱いでシャツに手を通す。
 髪も飾り紐で一つに結わいて鏡を見ると、少年従者にしか見えないと言われた姿が映し出されていた。
 流石に痩せたな。
 時の館では自分の姿なんて鏡で見なかったけれど、ひとしきり鏡の前で回ってみても、自分ではやっぱり男の子には見えない。
 ただ記憶の自分より、幾分ほっそりしているけれど。
 いくらスッピンでさらしを巻いてパンツルックになったとは言え、そうそう性別不詳にならんだろう。
 今日び中学生ぐらいの男の子でも見上げるような背丈の子もいるしね。
 暫く鏡の前で力こぶを作ってみたり、抜いてない眉やカットしてない痛んだ髪に見ないふりをしてから、ガウンを鏡台の上に置いて寝室に戻ろうと背中を向ける。
 その瞬間、間近の空気が動いて聞こえた、低い笑いを含んだ声。
「調子が良さそうで何よりだ。」

 肌に感じる暖かな蒸気。
 ぎぃぃと恐る恐る首だけ振り返れば、小部屋の装飾壁と思っていた透かし彫りの扉を前に、いかにも風呂上りといった風情のフォリアが立っていた。
 黒いラフなパンツに、素肌に引っ掛けただけの前開きのシャツ、濡れた髪は首筋に張り付き、文字通り水も滴る良い男といった風情だ。
「……おはようございます。」
 なんとも間抜けだが、他に何と言えと言うのだ。
 元々気まずい所に持ってきて、どうやらこの浴室へ続く扉、向こうからは、ばっちりこちらが見えていたらしい。
 勘弁してくれよー。
 そんな私の葛藤を見抜いているのか、面白そうに頭をぽんぽんと軽く叩かれる。
 そのまま小机の上のタオルを取ると無造作に髪を乾かしながら、隣のスツールに長い足を投げ出すようにして腰掛けた。
 濡れた髪はいつもよりも深さを増し、何とも言えない艶と色を放っている。
 その拍子に、押し込めておいた昨夜の情景――少し動く度に感じた彼の筋肉の動きや体の堅さ、吐息や唇の動き、男の体温に包まれたまま失った意識、――それらが一気に脳裏を駆け巡る。
 男を知らない訳ではもちろん無いけれど、そんな物は思い出すのも億劫な記憶の彼方。
 治療の為とは言え、昨夜の事は少々精神的に刺激が強すぎた。
 心中でひとしきり呻いてから、ため息一つ。
 取りあえず、それらを完全に意識の向こうに押しやった。

「昨晩は大変お世話になりました。おかげ様で無事生還出来ました。」
 気持ちを切り替えて深々とお辞儀をすると、気にするなと返答が返ってきた。
「リバウンドの可能性はあったが、正直俺も流石にあそこまで一気に出るとは思わなかったからな。こんな場所しかなかったのが難点だが、人目にはつかないのが不幸中の幸いか。
 ――正直良くあの痛みに耐えたよ。」
 労う様な声に、少し吃驚する。
 最初が最初だっただけに、皮肉屋で人を食ったような、どこか冷たい硬質な印象があったけれど、先ほどから彼から感じる印象は、何となく……柔らかい。
 闇の冷たさと、夜の暖かさを両方体現できるのか、この人は。
「…いえ、色々ご迷惑をかけまして。」
 何となく居たたまれなくて、どうして良いか分からない空気に、つらつらと、どうでも良いことを話し続ける。

「ここは治療用の結界が張ってある割には何だかホテルのような風情ですが、宿泊施設なんですか?それかお知り合いの家ですか?」
 自分で話しながら脳裏に赤いドレスがふわっと浮かんだ。……何だろう?
 ちょっと引っかかる物を感じていると、彼は少し目線を泳がせた後、わしわしとタオルを動かしながら、扉を顎でしゃくる。
「もし今後、蔦の絡まる装飾壁に、花や鳥のモチーフが彫りこまれていたら、そこの周辺に扉の取っ手や魔法器具が埋め込まれていると思っていい。――ここに水のようなモチーフが彫りこまれているだろう? これはここが浴室であるというマークだ。」
 何か話の持っていき方が強引だった気もするけれど、あっという間に興味は、例の扉にさらわれた。
 確かに言われてみれば、壁一面のこげ茶色のシックな透かし彫りの中には、水が流れるようなモチーフがある。
 そして、それをたどっていくと、丁度普通の扉と同じ位のサイズになった。
 ……つまりこちらの人から見れば、この装飾壁の一部が扉で、その向こうが浴室なのは一目瞭然だったわけか。
「それにしても随分と洒落ているんですね。風呂場の扉はこれが一般的ですか?」
「風呂はどこの家にもあるわけではないからな。自然と凝った物になるんだろう。」
 なんですと!?
「一般家庭にお風呂が無いんですか!?じゃぁお風呂に入りたい時は……」
「共同浴場に行くか、日常では体を軽く拭くくらいだろう。もちろん貴族階級ともなれば違うが。……トーコの所は、どうやら違う風習みたいだな。」
 何ともったいない。
 労働の後のひとっ風呂ほど気持ち良い物は無いだろうに。
 研究機関である『時の館』にお風呂が無いのは納得できたけれど、一般家庭に無いとは思わなかった。
 夏はどうするんだ、夏は。
 あ〜、そんな話をしていたら無性に温泉に入りたくなってきたぞ。
「私の国では一般家庭に普通に風呂がありますね。特に私の住んでいた所は温泉で有名だったので、しょっちゅう温泉を利用していましたよ。」
 温泉と言うのがフォリアには良く判らなかった様だけれど、私のお風呂に入りたいオーラは感じてもらえたらしい。
「どちらにしろ今は日が高い。出発するまで少し時間があるからトーコも入って行け。」
 高速で頷く。
 今までで一番、フォリアが素敵に見えた瞬間だった。