二章 雨にけぶる街 【3】

 緋色。桃色。桜色。
 ぼんやりと開けた目に最初に入ってきたのは、優しげな色合いの数々。
 天井から垂れ下がる薄絹と、その中心で柔らかな光を放つ照明だと気がつくのに、大分時間がかかった。
 見たこともないような大きな寝台を、少しずつ色合いを変えた薄絹達が覆っている。
 中にいると大きな花びらに包み込まれているようだ。
 視界がゆっくりと戻ると同時に、自分の笛を鳴らしたような息遣いが聞こえる。
 目をつぶって浅い深呼吸を繰り返しながら、少しずつ呼吸を整えると、助かったんだと言う実感がわいてきた。
 乾いて割れた口を軽く舐め、身じろぎしようとして、自分の手が自由にならない事に気がつく。
 ――え……っと、なんでだっけ。
 ぎしりと音を立てそうな首を動かし、視線を上げると、私の両手を拘束している深緑色の飾り紐が、壁の装飾に結わかれているのが見えた。
 天井から垂れ下がる、幾重にも折り重なった薄絹たちを花びらだとするならば、焦げ茶色で施された壁の装飾はツタを模しているのだろうか。
 そこに装飾の一部として組み込まれた、小さな鏡を見つけ、――別の意味で心臓が止まった

 恐る恐る視線を下げると、
 緩められたさらし、
 背中に回された手に突き出されるようにした胸、
 鳩尾におかれた大きな手の向こうに、かすかに揺れる深い紺色の髪、
 そして腹部に押し当てられた唇が、一気に視界に飛び込んできた。
 羞恥のあまり、残る痛みも忘れ思わず起き上がろうとすると、鳩尾と背中の指にイラつくような力が入る。
 よくよく聞いてみれば、先程からずっと小さくフォリアは何かを唱えている。

 ――私が邪魔しては、本末転倒ですよね。と、自制心を総動員して起きるのをやめたけれど、どうしたって体の力は抜けない。
 一体いつ、上の服を脱がされたのだ。
 なりふり構わなかったさっきと違って、なまじ意識がはっきりしてきたから、これはつらい。
 別に男に体を見せた事のないような年齢じゃあるまいし、と思えないのは、異世界難民生活も長いからだ。
 元々そんな「恥じらい」だの「女力」なんてものは期待されても困るような性格だけれども、三十路目前、化粧水から離れて早二ヶ月。
 ズタボロ状態の半裸を人前に晒すのは、最早犯罪の域に達するんじゃないか。
 少なくとも、迷惑条例ぐらいには確実に引っかかるだろう。

 痛みに耐えるために体中に負荷をかけたせいで、筋肉と言う筋肉が悲鳴をあげているけれど、そんなことすっぱり頭から消えうせた。
 落ち着き無く視線を動かすと、わざと壁の中に角度を変え埋め込まれた、何枚もの小さな鏡の中の自分と目があってしまった。
 あわてて視線を天井に向ければ、先程気がつかなかった照明の周りに、全身がうつるサイズの鏡が照明の引き立て訳として、施されていたのに気がつく。
 ――ほんっと勘弁してー!
 インテリアとしては非常に趣味が良い。
 柔らかな薄絹にうつる光と影、さりげなく間接照明のように輝く鏡たち。
 高級ホテルを思わせる光の演出に、通常時ならうっとりする所だけれども、今回ばかりはそう思えない。

 目! 目を閉じてれば良いんだよね。
 問題の半分しか解決しないけれど、問題の半分は解決する。
 えいやっとばかりに目を瞑れば、先程は感じなかった、指先の細かな動き、重なり合っている体の重さ、素肌にかかる息をより鮮明に感じて、ぶわっと一気に肌が粟立った。
 あいにく唱えられる念仏なんて知らないので、頭を冷やす為に昔覚えた平家物語の書き出しを諳んじる。
 古文が苦手だった私には呪文も同じだ。

 祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
 おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
 …………そこまでしか分からない。

 そんな馬鹿らしくも非常に切実な精神の葛藤も、手はそのままに、フォリアの唇がゆっくりと腹部から、わき腹まで進んで背中に回り、うつ伏せにされる頃になると、――完全に無意味なものになる。
 へその下あたりから始まって、徐々に腰の中心に向かう彼の唇の軌道を考えれば、もう一度、仰向けにされるだろう。
 けれども、いつの間にか緩められたさらしが、これ以上動くと用を成さなくなりそうだ。
 ……っ!
 混乱に耐え切れず、思わず目を開ければ、一瞬、正面の鏡に映る自分の体に、銀色の鎖が巻きついているように見えた。
 ちょ……と、一体、何これ?
 銀の鎖に見えたのは、よくよく見ると小さな文字が連なったもので、フォリアが何かを呟く度に、所々で一瞬輝いては私の体に吸い込まれるようにして消える。
 ――レジデ?
 この文字と色は見覚えがあった。
 時の館で最後に見た、彼の書いた魔法陣によく似ているのだ。
 それはどうやら崖から落ちた際に強く損傷した胸部と腹部のみに現れるらしく、手先や足には全く出ない。
 フォリアがおいた鳩尾と背中の手が、彼の唇が進むにつれ暖かさを増してゆく。
 もはや体の痛みは、筋肉疲労ぐらいで、先ほどの発狂しそうな苦しさは、完全におさまっていた。
「……っ」
 フォリアの施術の邪魔にならないよう、小さく息を飲む。
 私の予想を裏切って、彼の唇は、腰の中央から背骨のくぼみを徐々に上がり始める。
 その拍子に彼が身につけている衣服の生地が、ざらりと素肌の上をすべった。
 ぞわりぞわりとした感覚を、両手を戒めている飾り紐を握り締めることで耐えようとしていたけれど、――完全に過敏になった素肌にそれは少々刺激が強すぎた。
「……っくぅ……」
 シーツに押し当てて押し殺した声は、苦痛をこらえていた先程のものとは全く意味が違った。
 ――女を忘れて久しいが、女を辞めたつもりは無い。
 不感症ではないのだ。
 自分の体の中に、もう長いこと忘れかけていた小さな炎がともりそうになるのを、必死に振り払う。
 本気で早く終わってくれないと、気が狂いそうだ。

 そんな切なる願いが届いたのか、肩甲骨の間まで唇が到達する頃、ようやく彼の両手が私の体から離れた。
 未だに唇は素肌に押し当てられているけれど、もう何も彼も唱えておらず、私の体に所々現れる小さな文字列も、どんどんと淡く、ゆっくりと消えていく。
 伸ばされた長い腕が、壁にかけていた紐を外すと、ようやく終わるのかと、思わずため息に近い安堵の吐息が口からこぼれた。
 色んな意味で、本当に疲れた……。
 安心したら、一気に睡魔が襲ってきた。もうこのまま気絶するように眠りたい。
 その気持ちを汲み取ってくれたのか、ようやく離された唇が、耳元で一言
「眠れ」
 と言う頃には、泥のような深い眠りに落ちていた。