二章 雨にけぶる街 【2】

 恐怖で一気に血の気が引く。崖から見た景色と共に、あの時の苦しみを思い出した。
 リバウンド防止の術が正常に作動しなかったのだろうか。

 ――私、死ぬの?
 痛みと迫り来る死への恐怖のあまり、目の前に差し出された腕に縋りつく。
 腹部全体に広がる強い鈍痛に、先程の血みどろの夢を思い出した。
「トーコ!トーコ!」
 何度呼ばれたか分からない名前に、なんとか目線で応える。
 けれども痛みで滲む涙で、あのどこかひんやりとした、けれども包み込むような夜の瞳すら見えない。
 意識はあるなとの言葉と共に、いきなり上着の裾から冷たい両手が入ってきた。
 女の手ではありえない大きな手が素肌を這い回る。
「……やめ……ぇ……っ!」
 息も絶え絶えに伝えた言葉は、もはや嫌悪感や拒否感からでは無く、動かれることで強まる痛みと苦しみに耐えかねて、無意識に出ていた。
「辛抱しろ。少しは楽になるはずだ。」
 ぐっと鳩尾にあてられた両手から、じんわりとほのかに暖かなものを感じる。
 まだ体中は痛かったけれど、その感覚に無意識に体をゆだねた。大分弱いけれど、以前足から痛みを取った時の感覚に似ていたからだ。
 弱い抵抗をやめて、体を預けてどの位経ったのか。
 少しずつ薄まる痛みに、ようやく五感が戻ってきた。
「大丈夫か?」
 間近にある秀麗な顔に、彼の膝の上に乗っているんだと気がついたが、もはや動く気力も失っていた。
「リバウンド……ですよね」
 最初の声は上手く音にならず、宙に消えていった。
 口の中の血の味は、無意識に唇をかみ締めたせいだろうか。
「そうだな。思ったより一気に来たな。――あまり良い状況では、ない。」
 この人は真実を誤魔化さない。
 実際、腹部の強い痛みは抑えられているけれども、体全体に感じる強い倦怠感と圧迫感、手足に感じる痛みは依然として無くなっていない。
「このまま現地に向かうのは無理だ。一度休憩を取るぞ。」
 するりと片手が鳩尾から離れようとするのを、思わず手をつかんで必死に止める。
 この手が離れたら、またあの痛みが襲ってくるように思えたからだ。
 フォリアは少し驚いたような顔をしたけれど、軽く私の手を振りほどいて天井を強く二度叩く。
「アンバーへ」
 そのまま天井に目的地を告げると、何か仕掛けがあるのか、御者に伝わったらしい。
 了解と言わんばかりの見えないベルの音が一つ響いた。

「現地に着くのが遅くなって、大丈夫ですか。」
 体をぐったりと彼に預けたまま、尋ねる。
 とにかく早く現地に着いて欲しい。
 現地に着けば安心だと説明したレジデの姿を思い出す。
「このままだと、現地に着くまでお前の体力が持ちそうに無い。これから向かう先に、以前簡易治療結界を敷いた事がある。そこでもう一度術の補強をする。」
 するりと再び両手が鳩尾に当てられる。
 強まる痛みと、彼の手から引いてく苦しみが、まるで波のように感じる。
 この世界に麻酔があるなら、今すぐ使いたい。
「お前は大事な預かりものだ。死なせはしない、安心しろ。」
 ぐったりと目を閉じた私の耳に、小さく、届いた。

 なんとか痛みと均衡を保っていたフォリアの力が効かなくなったのは、馬車の止まる半刻ほど前。
 アンバーへの到着する事には、もう完全に自分で立っていられない位の痛みになっていた。
 馬車から降りるというよりは、馬車から崩れ落ちるように降り、フォリアの手を振り解き、吐けるだけ吐き続けた。
 体が震え強い寒気を感じるのは、打たれている雨のせいだけでは決して無い。
 体が砂袋のように重く、象に踏みつけられたかのように体中の関節という関節が悲鳴を上げていた。
 フォリアと女性の声が聞こえたけれど、もうこの世界の言葉を理解する余裕すら無い。
 吐けるだけ吐いて、胃液まで吐いた私を何かが包みこんだ。
 そのまま抱き上げられて、運ばれる。
 痛みで揺れる度に体のあちこちが壊れていく気がした。

「あんた、まさか無理やり手篭めにしたんじゃないだろうね。」
「こんな子供に手を出すほど不自由はしていない。それより誰も部屋に近づけるな。」
「はいはい。色男に限って変な方向に行きやすいからね。詮索好きのうちの子が、そっちに行かないように、注意しておくよ。」

 ガチャガチャという金属音の後、やわらかな場所に横たえられた。
 朦朧としたまま目を開けると、薄絹のカーテンの向こう、赤いドレスが扉から出て行くのが見えた。
 それが何だか考える間もなく、フォリアがしてくれたみたいに、無意識に両手で鳩尾を押さえる。
 最早、自分の体が血でぬれていないのが不思議なぐらいだ。
 けれど、自分で鳩尾を押さえたところで、痛みは一向に去らない。
「もう少し我慢しろ」
「……っ…」
 その言葉が死刑宣告のように聞こえる。
 一分一秒が永遠のように感じられる中、体を丸めるようにして、苦しさでのた打ち回る。
 痛みは最早嵐の様で、重く体の中を駆け巡ったかと思えば、強く飛沫を上げるように体内に打ちつける。
 決して慣れることの出来ない痛みが、内外で吹き荒れる。
 どこからか、かすかに聞こえる悲鳴が、自分のものなのか、幻聴なのか、自分の体が上げているものなのか。最早そんな事すらわからない。
 フォリアはそんな私の両手を一手にまとめると、そのまま手早く頭上に固定した。
 無理やり伸ばされた体と辛さに、思わず抗議のうめきをあげる。
 すると、ようやくフォリアの手が素肌に滑り込んできた。
 先程と同じように鳩尾に置かれた手が、焼け石に水程度、ほんの少しずつ痛みを抑える。
 その鳩尾に置かれた手が背中に回り、胸部を圧迫を取ると、そのまま背中と鳩尾に先程よりもずっと強い熱を感じた。
 熱さの分だけ、痛みが引いていく。
 全部の神経をその痛みを取ってくれる暖かさに向けると、砂漠に滲みこむ水のように、すぅっと痛みが和らいでいく。
 ガチガチに力の入った体から、徐々に力が抜けていくと、さっきまで石畳のように感じた場所が、上等な柔らかな寝台だと気がついた。
 手足にゆっくりと温かみが戻り、素肌に触れるシーツが心地良い。
 痛みはまだ抜けきらないけれど、ずっと閉じたままだった瞼を、ゆっくりと開けた。