一章 星降る時の館 【9】

 いきなり襲われた暗闇に、本を持ったまま立ちすくむ。
 いつもは星が降るような音が聞こえるホールに、甲高いアラームのような鈴の音が鳴り響き続ける。
 ――何かあったんだ。
 どんな事かは判らないけれど、異常事態であるのは確かだ。レジデに連絡を取るためには書斎に戻らねばならない。
 すくんで強張った足を叱咤し、手探りでソファに本を下ろした。
 月明かりだけを頼りにホールの反対側にある扉を目指す。
 ホールの一部は窓からの光がうっすら入るけれど、肝心の扉の周辺は闇が深い。
 こんなときに限って小型のペンライトを持っていないのが悔やまれた。
 目を凝らしながらホールを走り抜けると、一瞬、風を切るような音が聞こえた。
「っ!」
 不思議に思う間もなく、強い衝撃と共に体が投げ出される。
 そのまま勢い良く顔から落ちた所に、一気に腕を背中にねじりあげられた。
 みしりと音がして一瞬で息が詰まる。
「動くな。」
 私の耳元で、聞いたことも無い、低い男の声が聞こえた。
「どうやってこの結界内まで入った。教団の者か?」
 答えようにも捻りあげられた腕の痛みと、背中を押さえ込む力が強すぎて、息もろくに出来ない。
 苦しさのあまり身じろぎするが、足すら自由に動かない現状にぞっとする。
 不自由な体を圧倒的な力で押さえつけられたまま、首の傍に何かを突き刺すような衝撃を感じた。
「言え」
 一体何が起きてるのか全く見当もつかない混乱の中、一つだけ確かなのは向けられた殺気は本物だ。

 ――どこまでも殺しに来るつもりなの。
 バックミラー越しに見えた女性の顔がフラッシュバックする。
 車への衝撃、駆け上がる恐怖。
 一瞬、現状も忘れ記憶の海におぼれかける。
 それを止めたのは、苛立ったような男の声と、押し付けられたタイルの感触。
 耳元で何かを言われたけれど、完全に混乱している頭では、その言葉が意味を成さない。
 目を開けても広がるのは暗闇ばかり。
 さらに腕を捻りあげられ、強い耳鳴りと共に、思わず声が出る。
「ぁ…っ!」
 あまりの苦しさに意識が遠のきかけた。
「女?」
 ぽぅっと音がして、光が見える。
 捻りあげられた腕の力が弱まり、背中を抑え込む力が緩むと、一気に肺に空気が入ってきた。
 むさぼるように息を吸い込み、咳き込む。
 涙の向こうに、黒い短剣を握り締めた、大きな男の手が見えた。
 その男の指輪の上で、昔レジデに見せてもらったように、火の玉が踊っている。

「トーコ!!!」
 眦に溜まった涙が、聞きなれた声とパタパタと走り寄ってくる声に安堵して滑り落ちる。
「フォリア!止めて下さい。彼女は違います!」
 捻りあげられた腕が自由になると、全身の痛みから腕を抱えてそのまま床を転がる。
 駆け寄ってきたレジデが、呪文を唱えて肩と顔に手を置くと徐々に去る痛み。
 大丈夫ですかと問われ、混乱したまま上半身を起こされる。
 自力で起きようとしても、力が入らなくて、呆然としたまま足元に目をやると、両足全体に鞭のような皮紐が絡まっている。
 どうやらこのせいで転倒したらしい。
 強く絡みついた皮ひもを解こうと手を伸ばすと、先程の大きな手が遮って解き始める。
 骨ばった長い指に、大きな掌。
 ……いつの間にか気がつけば、天井のランタンはいつものように淡い光を放ち、ゆっくりと動いていた。
 視界が戻る事で、混乱しながらもようやく冷静になってきた。
 太ももに絡みつく鞭を解く手の持ち主を見上げると、深い紺色の髪を持つ男と目が合う。
「で、説明してくれるんだろうな。」
 私から目をそらさず、少し皮肉気な口調でレジデに問うこの男は、口元は笑っているが、全く目が笑っていない。
 日本ではついぞお目にかかった事の無い様な、野性的な男の雰囲気に圧倒される。
 視線で人を殺せるなら、確実に今の私は瀕死状態だろう。
「わかりましたから、一度場所を移しましょう。彼女も混乱している。」
 レジデが手をかして立ち上がらせてくれると、面白そうに男が片眉を上げた。

 軽く足を引きずりながら、そのままいつもの書斎に戻ると促されてソファに座る。
「足は痛みますか?」
 レジデは失礼と言って、ソファの前に座り込みズボンの上から医者の手つきで足首を触る。
「あ、大丈夫です。」
 声はややかすれていたけれど、足首をくるくる回せて見せると、レジデはようやくほっとした顔をした。
 タペストリーの前に置いた椅子が横倒しになっているのは、どうやら急いで来た彼がぶつかって倒したらしい。
 落ち着いてみると、鞭が強く絡んだ足の付け根の方が確かに痛むけど、歩けない程の事ではないから大丈夫だろう。
 そう思っていた所に、いきなり男の大きな手が乗る。
「あれだけ強く締まったんだから平気なわけ無いだろう。」
 言葉と共に軽く太ももを握られると、激痛で一瞬顔がゆがんだ。
 痛いって判ってるなら、わざわざ痛くするなよ!
 思わず睨みつけると、気が強そうだなと笑って、さらに手に力をこめる。
 けれどもさっきまでの激痛ではなく、暖かな感触と共に痛みが引いていく。
「俺はフォリア、お嬢ちゃんの名前は?」
 お嬢ちゃん!?
 いくらなんでも二十八歳の女性に言う台詞ではない。
 この男本気で言ってるのかとマジマジ見れば、意外なほど整った顔立ちだと気付く。
 顔を縁取る艶やかな濃紺の髪と、深い群青の海を思わせる、少し青みかかった黒い瞳。
 すっと通った鼻筋に、少し皮肉気に歪められたのがよく似合う、形の良い口元。
 シンプルな黒い服で包んだ身体は、細身でもしっかりと、しなやかに鍛えられていると判る。
 先ほどは造作なんて気にしてられなかったけど、顔立ちの良い男が凄むと、半端無い迫力だと初めて知った。
 夜と闇を体現したような男は、今は飄々とした体でこちらを覗き込んでいる。

「橙子です。それと残念ながらお嬢ちゃんと呼ばれる年齢ではありません。」
 若く見える東洋人とは言え、お肌の曲がり角を何回曲がったと思ってるんだ。
「大人に見られたいのは子供の証拠だが?」
 上から目線の余裕のある発言に、カチンと来る。
 お前もかい。
「そうですか。こちらの世界では二十八歳が、成人女性と扱われないなら、そうかもしれませんね。」
 成人女性よりやや喧嘩っ早いのは、子供の証拠かもしれんけど。
「に…じゅうはち?」
 案の定、呆然とした感で上から下まで見られる。
 何か言いたそうにレジデを見れば、レジデはレジデで明後日の方向を向いている。
 断っておくが、私は日本人女性として童顔な方ではまったく無い。
 けれども最初にレジデに年齢を言った時も、尻尾の先からひげの先までを使って、驚きを体現してくれた。
 良くて十八歳ぐらいに思われていたらしい。
 十八歳って、十も若いぞ。
 どうやら目の前の男性が証明してくれたが、こちらの人間は欧米系の顔立ちをしているらしい。
 もしかして東洋系の顔立ちの人間がいないなら、これからずっとこの対応が続くんじゃないだろうか。
 だとしたら大分ゲンナリするぞ。

「ええ。どうぞよろしくお願いいたしますフォリア。それと足の治療、ありがとうございました。」
 名前を強調するように正面にいる男を見つめて言う。
 ――訳すと、治療終わってます。
 言い換えると、いつまで人の足触ってるんだ、このエロ男。
 痛みは無くなったとは言え、初対面の男にいつまでも太ももを鷲掴みにされているこの現状は好ましくない。
 距離が近いよ。距離が。
 その一言で硬直が解けたのか、ようやく足を放してもらえた。
「レジデ、色々聞きたい事はあるんだが、お嬢ちゃ……いや彼女は今『こちらの世界』と言ったか?」
 耳ざといな。
「はい。お気付きの通り、彼女はテッラ人です。」
 気を取り直したのか、倒れていた椅子をぽてぽて運んでフォリアに渡す。
 椅子の背をこちら側に向けて跨るように座ると、夜色の男はうめくように言った。
「もう何を聞いても驚かないから全部言え、全部。」

 その様子に、幾つに見えたんだか、逆にこっちが聞きたい気持ちになった。