一章 星降る時の館 【5】

 殺されかけて、異世界に飛ばされて、次は死にたくなければこの館から出るなって、人生最悪の局面にいることは間違いないらしい。
 疑問を持たず受け入れられるほど幼く無く、権利を振りかざすほど若くも無い。かといって、絶望するほど歳もとっていなかったのは幸いした。
「終わってない……終わることがあるんですよね?で、終わったらココを出ることは可能ですよね。」
 前向きさは財産と思おう。
 確かにいつまでも見ていたくなるくらい、綺麗な館だ。
 まさに極上の景色だけれど、でもそれとこれは違う。
「今急に結界の外に出ると、あなたの体がこの世界の時間になじめず、リバウンド……元の仮死状態に戻る可能性が高いです。少なくともこの中で三ヶ月、――確実を求めるなら一年間は、ここで生活をした方がいい。」
 いーーーーちーーーーねーーーーーーんーーーーー……
 思わず座っていたソファーに沈み込む。
 広大と思われるこの館から、長期間出られないかもしれないという事より、向こうの世界に一年も戻れなかったら、完全に仕事ないであろう事実にショックを受ける。
 三十路目前で無職は痛い。
 「三ヶ月と一年って、大分違うんですが…」
 腹の中で貯金の残高を計算し始める。
 職場に未練はあるけれど、流石に職場の関係で起きた事件で殺されかけたわけだし、命と引き換えに殉じたいわけではない。
 それにしても下手すれば一年というのは、長すぎる。
 この間更新したばかりだし、家賃は振込みだから住むところは大丈夫だろう。
 けど、いきなり仕事場に行かなくなった場合は失業保険おりるの?
 呆然と今後のことを考えている間に、レジデはどこから取り出したのか、傍にあった台の上でお茶の準備を始める。
「トーコの世界では瀕死の状態から日常生活に戻すまでに、一瞬で治りますか?」
 んなわきゃない。
 気分が落ち着きますよ、とレモンのようなさわやかな香りのするお茶を目の前に差し出される。
 薄い水色の暖かなお茶を口に含むと、意外なことにコーヒーのような味がした。
「私の世界では魔法がない分、外科的な手術や医療が進んでいるけれど…言われてみれば、多分リハビリも含めて大分かかりますね」
 向こうの世界で奇跡的に救出され、一命を取り留めたとしても後遺症もなくここまで体が動くようになるとは限らない。
 そう思えば、瀕死の状態でこちらに来た事、そして早い段階で痛みの自覚症状がない位まで治してもらえたのは、行幸とも言えなくないのか。
「三ヶ月間は入院期間、それ以降は外の生活になれる期間と考えればきっと長くないと思います。――何せここを出たらトーコはこちらの世界の言葉が、全くわからない状態ですし」
「え?」
 今なんか、さらっと凄いこと言わなかった?
「今トーコと私が意思疎通できているのは、この館の魔方陣の力を使っています。おそらく外に出たら言葉が通じないかと……」
 ソファーに沈没、2回目。
 色々なショックを受けたが、すぐに帰れないことよりも精神的にはこれが一番重いかもしれない。
「つまり……その期間に、一から言語を覚えないといけないわけですか…?」
 私の英語の成績は、思い出したくもない。
 今、ホンヤクコンニャク的な何かで意思疎通が出来てるんじゃないのか。
 辞書も参考書もないこの世界の言語を日常生活程度習得するというのは、想像を絶する困難だろう。
「三ヶ月たったら館の外に出ないで、直接元の世界に戻るというのは出来ないんですか?」
 出来ないんだと思う。答えを聞く前から三ヶ月で戻れないであろうという事は、うっすら覚悟していた。
 けれども
「召還することはあっても、戻すことは今まで歴史上、一度も試したことがありません。それにトーコも仮死状態であちらの世界に戻りたいとは思わないでしょう。」
 それまでよどみなく答えていたレジデが、少し辛そうな顔で、それでもはっきりと答えた。
「…戻れないんですか。」
 意味を理解するのに、時間がかかった。
 気がつけば、聞くと言うより、言葉が口からこぼれ落ちていた。
「試したことがないと言う事は、可能性があると言う事です。」
 いたわるような温かな声が心の上をすべる。
 まるで体の中央にブラックホールが現れたように、体中の何かが虚無へと吸い込まれる感覚がする。
 その代わりのように、意識の隅に追いやっていた、般若のような女の顔、ガラスの割れる音やタイヤの軋む音がフラッシュバックする。
 ――気がつけば手足が氷のように冷たい。
「私も元の世界に戻れるよう最大限模索します。」
 ぽてぽてと近寄ってきて、うつむいた私の背中をなでた。何故だかその毛並みが揺らいで見える。
 天空でランプのぶつかる音が、まるで星の降る音のように心に響く。
 死体が見つかって、遠く離れた、優しすぎるあの人達を泣かせるより、事件に巻き込まれてストーカー被害から逃げていると思われたほうが幾分ましだろうか。

 少なくとも私はここで生きている。
 思わず目じりから落ちた一粒の涙が、大理石の床で跳ねるまでの永遠にも感じる瞬間、――私はこの世界で生きていく覚悟を決めた。