一章 星降る時の館 【1】

 ――さむ……。今、何時?
 寒気で目を覚ますと、見慣れた淡いベージュ色の運転席が目に入る。
 先程までの情景を思い出し、飛び起きた。
 あわてて体を起こして顔を触っても、もちろん出血なんてしていない。
 鏡を見ても、平和そうにバックミラーにつけた子猫のマスコットが揺れている。
 ぐーぱーと掌を握ってみるが異常なし。
 ――嫌につっかれる夢見たぞ、おい。
 盛大にため息をついてハンドルに顔をうずめた。
 昔っからコタツとホットカーペット、車の運転席で仮眠を取ると夢見が悪いとわかっているのに、うとうとしたらしい。
 あやうく三十路目前であの世行きする所だった。
 ――確かに麻衣子の様子は最近尋常じゃないから、不安が夢に出たのか?夢のお告げか?
 ストーカーの挙句、殺されないよう気をつけよう。
 ハンドルから顔を上げると、汚れてはいるがヒビ一つ入っていないフロントガラスの向こうに、薄闇が広がっている。
 今日は保育園の運動会の練習でいつもより疲れてるから、駐車場で寝てしまったのかな。
 田舎は田舎なりに都会と違った物騒な事件がある。最近この辺でも変な事件があるから気をつけないと。
 ――気を取り直して、何か夕飯は元気の出るもん作ろ。
 頭を軽く振って、ひとしきり冷蔵庫の中を思い出す。
 お気に入りのホウレン草のペンネがあるから、揚げナスのトマトソースでも作ろうか。それとも豚肉とそら豆の中華風炒めもいいかもしれない。
 あれこれレシピに思いをはせていると、それだけで少し元気が出るのが不思議だ。
 さてと、帰るか。
 火をつけてない煙草を口にくわえて、運転席のドアをあけ一歩踏み出した。

 ――ちょっと、ここ……どこ?
 四隅どころか天井もかすんで見渡せないぐらい、広く薄暗いホールの、ど真ん中に立ちすくむ。
 スニーカーの下は砂利と草でなく、タイルの感覚。
 薄暗いアパートの光と思ったものは、宙に浮かぶ幾つものランタンで、まるで蛍の光のように柔らかい光をまといながら、どういう仕組みかゆっくりと動いている。
 思わず口から煙草が落ちたが、気にも留めてられない。
 天井まで届く優美な曲線を描く窓からは一条の月の光が差し込んで、壁一面にびっしりと埋っている年代ものの本達を照らしている。
 間違っても保育園の駐車場でも、アパートの駐車場でもない。
 そもそも日本であるかすら怪しい景色が、広がっている。
 ――その前に、何故屋内。
 運転席の扉にかけた手に、我知らず力をこめる。
 そうしないと、車がどこかに消えて無くなってしまう気がしたのだ。
 海外の美術館でしかお目にかかった事の無いような大理石の石像が、少し離れて自動車を中心にぐるりと囲んでいる。
 こんなに幻想的で、美しい風景を見たことが無い。
 けれども、真夜中の美術館と言うよりは、真夜中の博物館というほうが相応しいと感じるのは、何故だろう。
 ――ここ、どこ。
 思わず、車内から出ていた半身をもう一度運転席に戻す。
 ――落ちつけ、おちつけ、落ち着こう。
 もはや何が夢なのか判らなくなってきたが、パニックして良い事なんて何一つ無い。
 深呼吸一つして、基本中の基本、自分の名を思い出す。
 次に体のどこにも異常が無いことを確認。ちょっと倦怠感とお腹がすいてるぐらいか?
 記憶肉体異常なし。
 少し考えてから、いつも助手席においてある通勤バッグに手を伸ばし、携帯電話を探す。
 小気味の良い音を立てて開いた画面の上には、案の定圏外のマーク。
 車内の後部座席を見渡し、自分1人である事を確認して、車内をロックする。
 これで少なくとも、この車内だけは、自分の知っている日常になった。
 カーナビもチェックしてみたいし、ライトもつけてみたい。
 けど、大きい音を立てたくない。
 夢であったとしても、無意識の警戒心からエンジンをかけるのを最後にしようと決意する。
 ――落ち着く為に、取りあえず一服しよう。
 呆然としたまま味もわからないポカリを口に含むと、それでも少しは落ち着いたようだ。
 さて、目を凝らして車外の様子を見ても、依然として様子が変わったようには感じられない。
 どーするよ、私。
 ――えーと、とりあえず五体満足で、早急に身の危険もなさそう。
 新人の保育士は、子供のケガを目の当たりにしてパニックする時がある。
 そうならないように、必ず教えておくのが
『まずそれ以上、ケガをしないような状況であるかを確認』
『周りの状況が危なくない場所なら、今度は本人の状態を確認』
『いつどこで誰が何をしたか等の、5W1Hをしっかり把握』
とにもかくにも、二次被害を防ぐ。むやみに騒がない等の、基本事項だ。
 無意識に自分でもそれになぞらえて動く。経験は大事だ。
 もう一度カバンをあさって携帯をみると、外に月が出てるのに時計は昼間の三時半。
 車ごと海外にでも持っていかれたのか?
 誘拐説を出してみる。
 無理やり現実っぽい答えを捻出するが、それはすぐに打消された。
 何故なら携帯の日付が金曜日のまま。昼間の三時半には、運動会の練習の片付けをしていたはずだし。
 となれば、一.記憶が間違っているのか、二.携帯を誰かがいじったのか、三.現実ではないのか。
――取りあえず、希望としては三番。目が覚めたら布団の上にいて欲しい。
 そうしてしばらく悶々と考えていたが、一向に目が覚める気配がない。
 携帯の事は一旦置いといて、車内から得られる他の情報は無いもんかと外を見渡すと、先程も見えた大理石の像の足元に、ガラクタの山が見えた。
 もしかしたら、別にガラクタじゃないのかもしれないけれど、ここから見るとまるでフリーマーケットの様に色々な物が並んでいる。
 しかし、二.〇の視力があったところで、こんなに薄暗くちゃ碌に見えやしない。
 ――意を決して外に出てみようか。
 警戒心と、少しばかりの恐怖心を押さえ込み、決意する。
 待っていても何も起きないなら、行動するしかない。
 車の中をがさごそあさって、武器になりそうなもの、役に立ちそうなものを通勤バッグに突っ込む。
 元々色々入ってるせいで、なんだかこれで殴ればそれだけで武器になりそうだ。
 うん、車内で出来る事はすべてやった。
 深呼吸ひとつして、もう一度ぐるりと車内を見渡した後、車の鍵にじゃらじゃらつけているキーホルダーのミニライトを点燈させて、そっと車外に滑り出した。